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24日は彰子と晩御飯食べてくるから。昌浩がそう告げたとき、安倍家のクリスマスは少なくとも次世代まで一時凍結されることが決定した。もともと幼い時分の昌浩が「クリスマスツリーが欲しい」と言ってから始まりそのままなんとなくだらだらと毎年続いてきた行事なので、その本人が外出してしまうならもう行う必要がないのである。ちなみに九時までには帰ると言い置いて出かけていった昌浩は約束通り九時前に帰ってきた。二人とも昔から真面目な優等生なのだ。この場合昌浩側の成績は優等生の条件に含まれない。
 残された面々は普段通りの夕食を摂り、チキンやケーキを食べることもなく、そのうち昌浩も帰ってきて、例年とは違うが何ら特別な雰囲気を含まない夜は淡々と更けていく。その中で紅蓮は特別と普通の合間にある感覚を持て余しながら冷えた廊下を歩いていた。
 目的のドアを三度ノックする。扉越しの「どうぞ」に紅蓮は無言のまま部屋へ入った。
「騰蛇? 何の用だ?」
「いや」少し迷って言葉が見つからないまま、紅蓮は左手に下げていた瓶を見せた。「飲むか?」
 フルボトルのシャンパン。勾陣は一瞬だけ目を丸くした後、「いただこうか」と笑んだ。

 彼女を部屋で待たせたまま、食器棚の奥から適当にフルートグラスを二脚取り、つまみにチーズを用意して、戻った紅蓮を歓迎したのは「お前の純情はたまに昌浩以上だな」とどう考えてもけなしているようにしか聞こえない笑声交じりの言葉だった。ダイニングを使うのが妙に気恥ずかしく思えた心理は彼女には駄々漏れだったらしい。「うるさい」と素っ気なく一蹴するも、それがさらにおかしかったのかまた笑われる。
 勾陣はわざわざサイドテーブルをちょうどいい位置に移動させてくれていた。グラスを受け取ってそこに置いた、彼女の左手にふと目がいった。白い指に目立つ赤い石。以前紅蓮がクリスマスにプレゼントしたものだ。よく覚えている、なんせ腹をくくるのが遅れたせいでサンタクロースの真似事をする羽目に陥ったのだから。その翌年から数年、彼女とは『クリスマス』を意識した日を過ごした。12月に入ったあたりから勾陣がプレッシャーをかけてくるのが例年のことだったのだが、今年は何もなかった。その理由は察しがついたので、紅蓮も特に何も用意しなかった。一言で言えば、口実がなくなったのだ。それでも本当に何もしないのは居心地が悪く思えたので、適当にシャンパンとチーズを買ったわけである。
 目線を感じて、紅蓮ははっと顔を上げた。途端自然に視線を逸らせた勾陣は、おそらく指輪に気付いた紅蓮に気付いている。指摘が飛んでこないのは優しさというより情けだろう。

 おどけたような乾杯をして、なんだかおかしくなって二人同時に肩を震わせた。ひと口流し込んでグラスを置く。細長いグラスの中で小さな泡が絶えず弾けて立ち上っている。
「今年はもう何もしないと思っていたよ」
 彼女はそう言って二口目を傾けた。
「そうだな、俺もそう思ったが、一度何かすると何もしないのも居心地が悪いもんだな」
 と言ってもこの程度、おそらく世間的には何もしないの範疇だ。
「だったら今年も頑張ればよかったのに。期待していたんだがな?」
「お前が? 今年?」
 素でそう返すと、勾陣は呆れ気味に綺麗な眉を顰めた。
「なんだその反応は。私とて女だぞ。毎年だったんだ、期待しても何もおかしくない」
「そうだったら、お前、今頃怒っているだろう」
「怒っているのかもしれないじゃないか」
「それはない。それくらい分かる」
「なぜ?」
「お前のことだからだ」
 軽快だったやりとりが、そこでふつりと途切れた。「勾?」しげしげと彼女を見やると、彼女は呆れの色をより強くして息を吐いた。
「騰蛇、お前、そういう言葉は言えるのに、なんで毎年あんなに分かりやすく挙動不審に陥る羽目になっていたんだ」
 言われて、今しがたの言葉と例年の自分の姿が脳裏を駆け巡る。今度は紅蓮が黙る番だった。そんな紅蓮を見て、勾陣は「知っていた」ともう一度息を吐いた。「意識した途端に駄目になるんだったな、お前は」
「……うるさい」
「はいはい」
 どうにか絞り出した抗議とも言えない抗議もあえなく適当にいなされる。意識をしたら駄目になる、その自覚は紅蓮にもある。何気なく吐いた自分の言葉に後で固まることもそう珍しいことではなかった。そして彼女は意識をさせるために敢えて毎年プレッシャーをかけていたのだろう。プレッシャーはクリスマスやホワイトデー、無言の悪戯じみた空気はエイプリルフールやハロウィンや。目ざとく口実を見つけ出しては勾陣は紅蓮をからかっておもしろがる。
 無言の間を繋ぐために紅蓮はシャンパンを思い切り煽った。炭酸がぴりぴりと舌先で弾ける。
「そういう飲み方をする酒じゃないと思うぞ」
 気のない注意が横から飛んだ。
 いつのまにか彼女のグラスも空いていた。人界の酒だ、ペースなど考える必要はない。ワインを注いでやる間、注ぐ音とグラスを置く音、彼女が腰を掛け直した衣擦れの音、小さな音がそれぞれやけに目立って、けれど響かず空気に消える。夜は静かで、音を吸いこむ。
「そうだな」
 チーズを齧りながら勾陣は脚を組んだ。
「今年はもう口実がなくなってしまったからな」
「ああ」
 やはりか。口にはせず瓶に栓をする。コルクに染み込んだアルコール臭が鼻先をくすぐった。
「どうせお前はもう気が付いているんだろうが」そう言って勾陣はさっそく二杯目を傾ける。合うじゃないかこれ、と小さく呟いたのはチーズのことか。「これを貰ってから毎年お前を急かしてはみたが、別に取り立てて特別な日だとはちっとも思っていないんだよ」
 そもそも外国の宗教に基づいたイベントで、恋人と過ごす日、などという固定観念が世の中を席巻してはいるが、それとてごくごく最近生み出された文化だ。
 勾陣は左手にはめた指輪を右の人差し指でそうとなぞった。狙ったのか? お前の、本性の時の髪の色に、そっくりだ。後日そんなことを言われて固まったことを思い出す。これも意識して駄目になった一例だ。確か彼女はその時呆れと意趣返しが入り混じった顔をしていた。
「じゃあ、なんで毎年わざわざプレッシャーかけてきたんだ」
 答えの予測はついたが敢えて聞く。
 勾陣は、果たして予想通りの言葉で笑った。
「緊張して慌てながら頑張るお前があんまり可愛かったから」
 予想は当たったが、可愛いと言われて喜ぶ男などいない。内容が内容なだけになおさらだ。紅蓮があからさまにむすりと押し黙ると、勾陣は「拗ねるなよ」と紅蓮の背をあやすように叩いた。「分かった、言い換える。おもしろかったから」
 どのみち紅蓮が嬉しがる方向にはいかないらしい。と言うより、彼女に色々駄々漏れだったらしい過去を思って、紅蓮は思わず額を覆った。

 勾陣は人界で多くの時を過ごすようになってから、人間のイベントに率先して乗った。基本的には紅蓮をからかうために。たまに天后と遊んでいたのを見たことはあるが、第一の目的は紅蓮で遊ぶことらしかった。この『と』と『で』の間には何か大きくて深い溝があるが、紅蓮はとっくにそれを諦めている。
 だが、その奥にひとつ、確かな何かが潜んでいた。気づいたのがいつだったかは分からない。気づくより前に分かっていたから。赤を赤だと認めるように、空を空だと思うように、紅蓮には当たり前に見えていて、けれどその瞬間は表向きのからかいに忘れられているものだった。

「ちょうどよかったんだがな。クリスマスというのは」
「俺はだいぶん寿命が削られる思いだった。特に準備期間」
「寿命などないくせに」
 勾陣は喉を鳴らして笑う。
 それを横目に紅蓮は三秒間だけ目を閉じて、そして頷いた。
「……でも、まあ、そうだな。確かにちょうどよかったな。他のイベントほどお前も俺を全力でからかいに来なかったしな。バレンタインみたいな奇襲もなかったし」
「ああ、それだけ惜しかった。もうちょっと色々仕掛けてみたかったが、特にクリスマスは男がリードするロマンチックなものという観念が強すぎる」
 毎年他人事のように「頑張れ」と言ってきた女が何を言うか。
 ロマンチックはともかく、と言い置いて、紅蓮はふとテーブルの上のシャンパンを見た。二脚のフルートグラスの中では飽きもせず最下層中央部から細かな泡が弾けている。
「むしろお前が言うじゃないか。こういうときくらいリードしてみろと」
「言うよ。私とて女さ」
 本日二度目の台詞だ。そんなことを言うくせになんだかんだで主導権を握りたがる、そのちぐはぐな言動は何なんだとたまに問いたくなる。
「まあ、私の方がお前よりムードを作ることは得意だろうな」
 さらりとそんなことを言ってしまうあたり可愛げがない。指摘したところで私に可愛げを求めてどうすると開き直られるのが目に見えていたので、紅蓮は黙ってその言葉をやり過ごした。

 暗黙の共通見解はどう言葉を尽くせば適切に形容できるか、紅蓮には分からない。強いて言うなら恋愛ごっこだった。けれどそれは正しくない。なぜなら愛情は遊びなどではなく最初からずっと深いところで信頼と共に二人を結んでいたからだ。
 もう、ずっと昔のことだ。クリスマスなんて言葉がこの国に伝わるよりもずっと昔、いつの間にか同胞から友情へと緩やかに変化していた彼女との関係は、またいつの間にか、完璧に丸い信頼の中に、ひっそりと愛情を忍び込ませた。それは間違いなく、今風に言うなら『初恋』という言葉になるのだろう。だが、その単語は、自分たちには寒気がするほど甘酸っぱすぎて似合わない。
 けれども、そう、恋と呼ばれるべき感情を、自覚さえ待たずに、紅蓮は彼女に抱いたのだ。生まれたばかりのそれは、当然ながら一方的なものだった。彼女からのそれもまた、一方的なものだった。お互いに、一方的に、その感情は向き合っていた。そしてその感情が返ってくることはなかった。自覚をし、思いを確認し合ったときには、それは愛と呼ばれるべき、もっと深いものへと変わっていた。
 彼女との間に横たわるものを敢えて名づけるとするならば、それは信頼と愛だ。あまりにあたりまえにそこにあって、だから普段はつい意識することさえ忘れてしまうような、存在感を持つからこそ当然のものとして収まってしまった愛情。けれど、だから、時折それを取り出して、触れて実感してみたくなる。疑っていないからこそそのかたちを確認したくなる。ここにあるのは当たり前で、けれどどんなものだったかな、と。
 だから口実が必要だった。遊び、言い訳、そんな風にも言い換えられる。普段意識さえ忘れるほどずっしりと横たわっているものをわざわざ取り出して確かめてはにかんでみる、そのためには、酒のように、酔うための材料が必要だったのだ。
 人間のイベントはそれにうってつけだった。人間はあらゆるイベントを恋やら愛に結び付けたがって、勝手に乗りかかるのは難しくなかった。特にここ十数年は人間に擬態して人間として生活している日々が当たり前になっていたのだからなおさらだ。その中でもクリスマスはとりわけ優れていた。紅蓮の言うとおり、イベントをもうひとつ口実に勾陣が紅蓮で遊ぼうとしなかったことが大きい。目的が単純化していたのだ。
 と言っても、最初の一度は違う。紅蓮が勾陣を、純粋に、驚かせて喜ばせてみたかった。そんな単純な心から始まった。しかし二回目から口実にしたのは紅蓮の意志でもあった。一度目の行動は、繰り返すには口実にでもしないとやっていられない程心臓に負担をかけたのである。なんせ渡した側のくせに翌日どんな顔をしていいか分からないまま逃げたという暴挙を彼は犯した。もっとも、口実化してしまっても心臓が寿命を削る勢いで駆けることは変わらなかったが。
 だが、今年はできなかった。昌浩と彰子が正式に付き合い始めたのだ。幼い時から丁寧に育まれたあの眩しい恋を口実にするのは許されない気がした。そしてこの家の『クリスマス』は今のところなくなり、一度言い訳をやめてしまうともう一度行うのはどこか白々しく思え、今こうして彼女の部屋で、ちょうどよかった口実がひとつ消えたことをなんとなくだらだらと惜しんでいる。

 二杯目を空け終わると、今度は勾陣が注いでくれた。同じ酒ばかりというのは少々飽きてくるが、そろそろボトルの残りも少ない。
「特別な日ではなかったよ。だがお前が頑張ってくれるのは心地よかった」
「……面白がってただけじゃないのか?」
 心外だな、と勾陣は肩をすくめた。
「面白かったよ。ただそれだけではなかった。嬉しかったさ。お前に思われていることがはっきりと分かって」
「過去形にされると何か引っかかるな」
「細かいな、去年までを思い返しているだけだろう」
 脚を組み替え、後ろ手をついた勾陣は「まあ」と楽しげに口元を緩ませる。紅蓮はそれを気にせず杯を傾けた。
「十年か十五年かもしかたら、またこの家は『クリスマス』をやるんだろうさ。その時はまた頑張れ、騰蛇」
 ちょうど喉を通っていたワインが、咽せはしないが引っかかりそうになった。どうにか平気な顔を保って飲み干す。彼女を見やると楽しげな笑みのまま勾陣は紅蓮を見ていた。この表情は嫌になるほど見覚えがある、紅蓮をからかうときいつも彼女はこの顔をする。どこか挑戦的に弧を描く赤い唇は涼しそうに笑うのみだ。
「また頑張って欲しいのか」
「どうだろうな。数年限りというのも惜しいと思っただけだが、私も私がどれだけ惜しんでいるのかよくわからない」
 だから十年後くらいがもう一度試すにはちょうどいいだろう、と勾陣は素っ気なく告げるが、頑張るのは紅蓮(の心臓)なのである。だが、それを主張するのも情けない。
「なんか欲しいもんでもあるのか」
 だから代わりにそう聞いてみたのだが、返事は「たわけ」とつれない。「今欲しいものがあってどうして十年後という話になるんだ」と正論で叩き潰された。モノがどうこうという話の方が紅蓮にとっては楽だったという横着の結果なのでぐうの音も出ない。
 ふいに、それきり彼女は黙った。隣を窺うと、何か考えている様子だった。綺麗な横顔を眺めながら「勾?」と呼びかけてみる。
 呼びかけて数秒、ふっと息を吐いて力を抜いた勾陣は、「騰蛇」と逆に紅蓮を呼んだ。上半身ごと紅蓮に向き直った彼女の顔を見て、彼は思わず身構える。挑戦的なのではなく挑発的、爆弾を投げ込む直前の顔だと経験上予測できたためだ。取り敢えず避難とばかりにグラスを置く。
 果たして彼女はそんな覚悟を軽やかに粉砕した。
「私が今まで生きてきていちばん欲しかったものはお前なんだ。それでお前はもう私のものなんだから、これ以上とりたてて欲しいものなんて私にはないんだよ」
 どこか上から目線のくせに妙に素直で傲慢な口ぶりを装いつつその内容はやけに謙虚、穏やかな声音の底にからかいの意図を潜ませて。いつまでたってもこの手の言葉には慣れない。思考は硬直して、唯一動いている部分はあらかじめグラスを避難させた自分を称賛していた。次いで動いた部分はもはやお約束だと現状に呆れ、適切な反応を返すまでにしばらくかかった。適切な反応とは「……は?」の一言のことである。
 そしてもうしばらく時間を要し、紅蓮の舌はようやっと溶けた。
「口実は終わったんじゃなかったのか」
「終わったよ」
 グラスを傾けた勾陣は涼しげな顔だ。ムードを作るのは紅蓮より得意だと自称していた所以がおそらくこのあたりにある。問題点があるとするなら互いの性別と紅蓮がそれを受け取るまでの齟齬が作られかけたムードを壊すことだ。
「だから、口実じゃない。なんなら明日でも半年後でも言える。たまには素面の言葉があったって悪くないじゃないか」
「シャンパン飲みながら素面て、お前」
「ワインなんて私たちからすれば水同然だろう、しかもこの程度。……ああ、そうだ、騰蛇」
 再度の呼びかけに、紅蓮は不穏なものを感じて「待て」と言った。しかし彼女が聞くはずもなく、出てくる言葉は紅蓮の予感と一言も違わない。
「騰蛇、今できた、欲しいもの」
「聞かんからな。それこそ口実だからな」
「プレゼントじゃなくていいよ、普通の頼みごとだ。たまたま今日が24日なだけだ」
「屁理屈だ」
「私は一週間後でもひと月後でもいつでもいいし、先延ばしにしてもいいが、それはそれでお前の性格上お前の負担が増えるだけだと思うぞ」
 さっくりとこちらの心配をしてくるあたり本当に可愛げがない。そしてその心配が的を射ているあたりも。意識をしたら駄目になる、つまりはそのことを言われている。
 勾陣はほんとうに楽しそうに身を乗り出した。おそらく絶対に意図してだろうが。
「素面の言葉。五文字でいい。……ほら、騰蛇」
 いくら苦手でも、そこまで言われてなお逃げられるなら、その感情は嘘だ。そして紅蓮に嘘などない。
 知らず詰めていた息を吐き出して、喉を鳴らす。もう一度吐く。黒の双眸は遥か昔から知っている答え合わせを楽しそうに待っている。素面だと耐え切れないから口実を使っていたのにこれでは意味がなかったが、文句を言うタイミングはすでに逸していた。それに、どこか子供じみたその表情も、紅蓮の好きなものだった。視界の隅ではグラスに少なくなったシャンパンが相変わず小さな泡をいくつも弾けさせている。
 過不足のない五文字。二文字分の呼びかけを後に添えて。
 ひとつ、今夜いちばん深く笑んで、勾陣は満足げに頷いた。

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実家のが。あほ可愛い感じ。

ツイッターにだけ挙げてた小話をこっちにもあげました。それなりの長さのやつだけ。十…もないかな。そんくらい。

拍手[7回]

なあ騰蛇、心はどこにあると思う?
 相変わらずの唐突で脈絡のない問いかけに、しかし相変わらず虚を突かれて、そして俺は相変わらずいつも通りにきょとんと黙りこくって瞬きを繰り返す羽目に陥った。勾は俺の反応を相変わらず面白がって笑った。もはや恒例過ぎて少しも気分を害さない遣り取りだ。ひとつ息をして、自分の左胸を親指で指す。
「……ここじゃないのか」
 勾はしなやかな指を口許に当て、ふむ、と無表情に鼻を鳴らす。回答がお気に召さなかったらしい。横目で俺を見て、勾は肩をすくめた。
「ありきたりな答えだな、つまらん」
「お前は俺に何を求めてたのか取り敢えず教えろ」
「ん? まあ、なんでもいいが、もう少し面白いことを言ってもいいだろう」
「無茶振りの自覚はあるか?」
「あるよ」
 即答。思わず額に手が行った。
「あるのかよ……」
 呻く俺を横目に、涼しい横顔は変わらない。やや恨めしげな視線に気づいた勾は、おもむろにこちらに向き直り、にっと口の端を上げて、無言のままに文句を牽制してきた。勾がよく使い、俺がよく食らっている手だが、この手を彼女から食らっているのは自分だけな気がしてならない。
「だったら」溜息をひとつ、吐いてから立てた片膝に頬杖をつく。「お前はどう思うんだ。どこにあると思う」
「私?」
 そうだな、と彼女は軽く仰向いた。その所作は優雅なまでにゆったりしていて、つい、考えてなかったのかと揶揄するつもりも失せてしまう。俺もなんとなく上向いてみると、雲の隙間に双子星が瞬いていた。普段通り、ただ意味もなく二人で過ごす夜半の屋根上で、退屈しのぎがてらの思いつきをふっかけてきただけなのだろうが、それで一方的にがっかりされても流石に横暴である。まあ慣れたが。慣れるのもどうなんだろうとは思う。
 うん、と勾は小さく喉を鳴らした。顔を向けると、彼女もこちらを向いていて、見慣れた強気な笑みが口許を美しく彩っている。
 ついと勾は指先を俺に向けた。指差すのではなく差し出すように。
「指だな。指先」
「ゆび?」
 しなやかな指先に視線を吸われた。夜闇の中にあってなお、微かな星光りを弾いてすらりと白く、控えめな桜色をした爪はつややかだ。武器を扱うためにか少し短い。昼日中、太陽の下なら、もっと眩しいほどに勾の肌は白いはずだ。
「ああ」
 見えなくても分かる、勾が力強く頷く。その声に、なぜ、と尋ねるのも忘れてしまった。この女がこんなに力強くそう言うのだから、その理由は俺に分からなくても、まあそうかもしれない、などと奇妙に納得する。そういえば、いつだかどこだったかで、人間が、指先が冷たい人間は心が温かいのだなんてことを話していたのを聞くともなしに聞いたことがある。彼女がそのような与太を本気にしているわけもないし、そもそも知っているのかも定かではないから、きっと無関係なのだろうが。
 女の指先をずっと見ていたのを、当の彼女が可笑しそうに喉を鳴らしたのが聞こえて、俺ははっと目を逸らした。奇妙な居心地の悪さを覚えてこめかみを掻き、ふっと、黒い何かが視界の端に入り込んだ。
 自分の爪だ。そのまま俺は、少しだけ勾のことを忘れて、右手をまじまじと見た。俺の肌は褐色だが、指先に行くにつれ、その色は取り返しのつかない焦土のように黒くなっていく。この手は指は神や人というより異形のそれに近い。同胞のうちでただ俺だけが、異質で孤独なものである証のように。爪も黒く、長く、……かつて人の肉を抉った。ならばこの黒は血の跡なのだろうか? そんな考えが頭をよぎって、左胸がひどくきしみ、喉の奥が痛くなった。一度沈んだ思考はそのままぬかるんだ泥沼のより深くまで引きずり込まれる。まるで傷つけるための指先だ。いや、まるで、じゃない。実際にそうなのだ。破壊にばかり傾いた力を振るうため、敵の血に染まるため、傷つき壊すため、ただそれだけの、ならば、そんな場所に心が宿るというのなら、きっとそれも――
「こら」
 耳元でぱしんと音が響いた。驚くほどいい音だ。「って」そのせいで痛くもないのに声が出た。
 こめかみをはたかれたのだ。はっと勾を見ると、気持ちいいほどに険しい目で俺を睨んでいた。夜より深い黒の目が、星などよりよほど激しく煌めいている。やってしまった。勾は俺の自虐をこの上なく嫌う。自傷のように見えるのだと言う。
「ああ、ええと」鋭く睨まれて、ふっと息が楽になる。沈んだ思考が目の前の勾で上書きされる。「……すまん」
 ばつの悪さでつい頬が緩む。きっと情けない顔を晒しているのだろう。
 勾は厳しい顔つきのまま瞑目して、薄い息を長く吐き出した。
「毎度毎度、隙あらば勝手に落ち込もうとするな。困るのは私なんだ」
 困るのか。言おうとしてやめた。きっと余計に怒られる。
「まったくお前は、いつもそうだ、いい加減飽きないのか。少しくらい学習しろたわけ。そこまでいくといい加減才能だが、そんなものはいらないだろう、捨てろ。そういうつもりじゃなかったのに、なんでそうなる。いつもいつも……」
 ぞんざいな口調がむしろ心地いい。思わず笑ってしまったのは苦笑ではなかった。勾はいつも俺の憂鬱を上手に切り捨てる。いつだってそうだ。俺を見つけたのは晴明で、救ったのは昌浩で、けれど引き上げるのは勾なのだ。
 つまらなそうな顔で立てた片膝に頬杖を付き、ひとしきり俺をくさして、勾はじっと俺を見上げた。その目に先ほどまでの険しい光はなく、ただ真っ直ぐだ。俺を探っている目だった。俺が沈み込んでいないか、ただそれだけを探る目。やがて勾は表情を緩めて首を傾げた。黒い髪がさらりと揺れる。
「分かった」
 何が「分かった」なのか、訊こうとして先を越された。ぴっと俺の胸元を指差し、勾は微笑む。
「説明がてら口説いてやろう」
「…………何がだ」
 どのみちそう訊くことにはなるらしい。勾はよく俺との会話で手を抜く。
 心臓の奥でとぐろを巻いていた憂鬱はもうぱらぱらした欠片になってしまっていたが、純粋に理由は気になる。涼しげなのに暖かい、絶妙な均衡を保って微笑みながら、勾は立てていた膝を伸ばして腕を組む。
「心は指先にあるんじゃないか、とね。お前を思って、そう考えたんだ」
「俺?」
「うん」
 なぜ。
 思わず自分の手を見ると、「余計なところに入り込むなよ」と釘を刺された。大丈夫だ、慌てた返事はついぶっきらぼうな響きになった。勾は、くつ、と喉を鳴らす。妙な気まずさを覚えて空を見上げるが、続いた勾の発言でまた彼女に向き直ることになった。
「騰蛇。私の頬に触れろ」
「は!?」
 大分間抜けな声が響いてしまった気がするが、誰にも責められるものではないと思う。勾の発言が唐突なのはいつものことだが、いくらなんでも唐突すぎる。予想した、うるさい、の一言はなく、代わりに「いいから」と促された。
 途端に心臓が跳ねた。触れたことなんていくらでもある。が、面と向かって催促されると不思議なほどに緊張した。勾に甘い意図などなく単に説明のためなのだろうと分かっていても、だ。この行為がどういう説明につながるのかは全く分からないが。
「ほら」
 勾が笑みを深める。手を伸ばす。柔らかな感触と、じんわりと伝わる体温。きめ細やかな肌に触れるたび、俺はいつだって慄いている。少し間違えたら壊してしまいそうだ。勾が俺に次ぐ二番手なのだと忘れたことなどない。勾の実力を不安に思ったことなど一度もない。それでも花を手折るより簡単に傷つけてしまえそうな錯覚は常に俺に纏わりついている。無駄な肉など一切ついていないのに、この柔らかさは何なのだろう。そのつもりなどなくとも指先に神経が集中する。息が硬くなる。鼓動が勾に聞こえたらからかわれるんだろうなと、ばかなことを考えた。だが、触れた箇所からなら伝わるかもしれない。
「……うん、やっぱりだ。思った通り」
 勾はゆるりと目を閉じて、俺の手の上に自分の手を重ねた。白い肌と、黒い肌と、白い肌。鋭い爪など気にもせず。
「お前はこうやって、大事に、私に触れるだろう。私を引っ掻かないように、私を傷つけないように」
 瞼が上がる。目が合う。とても優しい色をしていた。ぎくりと体が強張った。勾に分からなかったはずはないのだが、彼女は何も指摘しなかった。視線を逸らすことはできなかった。勾の目には引力がある。いつだって俺を惹きつける。
「それがお前の優しさなんだと、思ったんだ」
「……そんなこと、考えてやっているわけじゃない」
「無意識なら、それこそお前の本質なのだろうさ」俺の反論を、勾は簡単に払いのけた。「意識しない、剥き出しの心、そのものだろう」
 勾はどこか楽しそうだった。そして、口説いてやろう、なんて言ったくせに、それからの言葉すべて驚くほど無邪気だった。俺のための本心を告げるとき、彼女は信じられないほど無防備になる。触れ合う箇所の体温はもう完全にひとつに溶けていた。
 だから、と勾が続ける。その声音は歌を紡いでいるようだった。
「私はお前の指が好きだよ。お前の優しさが一番伝わる。私の好きなお前そのものだ」
 勾の笑みが、この日一番、深くなった。息が詰まる。――あんまり綺麗だったので。
 はっと顔を背ける。無意識だった。手は離せなかった。勾の手がまだ重なっていたから。触れているのが俺の方でよかったと思った。触れられている側だったら、頬に集まった熱をすべて知られてしまう。息の仕方が分からなくなりそうだ。数回唇を開閉し、俺はやっとのことで憎まれ口をきいた。暖かい言葉こそ受け入れるのに時間がかかるのは、俺に限った話ではないはずだ。勾はずっと笑んだままだった。掌の感触がそれを伝える。
「口説き文句、なんだろう」
 どうせいつものからかいなんだろう、分かっていながらそうやって逃げようとした俺を勾は許さなかった。手の甲にあった感触が離れる。惜しいと思う間もなくそのまま力づくで彼女の方へ向かされる。「ほう?」いたずらじみて挑発的なよく見かける声と笑い方。
「心外だな。私の言葉はそこまで軽くないぞ」
「暇さえあれば俺をからかってくるのは誰だ」
「それにだって嘘はないよ」
 そのくせ瞳の奥の黒だけはどうしようもないほど無防備に光る――
「すべて、心からの本心だ」
 呆然と、そっと触れていた手を離すと、白い手が追いかけてきて容易く捕まえる。そのまま唇が押し付けられた。振り払うことなど出来るはずもなく、柔らかな感触を受け止める。上目遣いで伺われて、浮かべるべき表情に困り再び顔を背けた俺を、勾は今度は引き戻さなかった。俺の指をいじってくる手をゆるく握り込む。抵抗はされなかった。それ以上、俺は何も言えなかった。勾もそれ以上何も言ってこなかった。ただ時折、笑い声が夜の風に忍び込んだ。優しいのはお前の方だ、と、そんな言葉を告げることさえ忘れていた。

拍手[8回]

気のせいのように微かな光がいくつか星々の合間に流れた後、ひとつ、ぱっと華やかな光が一筋、闇の薄い夜空に描かれた。星々の輝きを奪う街灯は代わりのように煌々と空の高い闇さえ晴らす。昔にはこんなぽつりぽつりとしか光が散見しない空など想像だにしなかった。それに流星が凶兆ではなく何か特別な「いいこと」として人間に持て囃されるようになることも。
「願い事が叶う、か」
「ん、どうした?」
 傍らの紅蓮が独り言を拾って律儀に返してきた。何年経っても何が変わろうとも、どうしてだかこれは変わらない。彼と星空を眺めながら言葉を交わす無為な時間は。むしろ流星群だの月食だの、口実を見つけては互いを誘って二人この時間を保とうとする。
 いや、と勾陣は首を振った。視界の端に流れた気がしたが、そちらを見た時にはもう何もない。
「言うだろう、願い事を三回唱えると叶う、と。そんな無茶振りがどうしてこんなに人口に膾炙したのか、ふと思っただけさ」
「あー、確かに。昌浩の言葉を借りると『無理ゲー』か」
 現代っ子はよく謎の語彙を仕入れて口にする。
「よっぽど長く流れても三度は無理だな。一度…でも実際に言うのはきついだろうなー」
「よし騰蛇、試してみろ」
「何が『よし』なんだ何が」
 第一願いと言ってもな、と紅蓮は息をつく。星にまで縋りたいような切実な願いも戯れに星に託してみるようなささやかな願いもきっと持ってはいないのだ。それは勾陣も同じだった。そもそも神である自分たちは何かに願うという概念自体が人間よりも薄い。に長く人間と触れ合って相当の影響を受けた自覚があっても、だ。
「昌浩のテストの点数でも願っといてやるか?」
「本人が聞いたら怒りそうだ。というか、怒るな、確実に」
「だよなぁ」
 紅蓮はやややる気なさげに頭をがしがしと掻いた。そしてふと勾陣を見る。勾陣は、視界の隅でまた気のせいのように流れた軌跡とその場所を確認して、気のせいの気配すら夜空になくなってしまってからそれに応じた。人型を取っていても、勾陣の目ははっきりと紅蓮の表情を読み取れる。頬の力の緩んだ真顔、どこかきょとんと純粋な。妙におかしくなって思わず小さく噴いた。
「……なんだ」
「いや別に」くつ、ともう一度だけ喉を鳴らして首を傾げる。「お前こそなんだ」
「あ、いや、まあ。お前はどうなんだと言おうとしただけだ」
「私?」
「勾は何かないのか? 願い」
 勾陣は数度、瞬いた。彼の問いかけに驚いたのではない。なぜそんな、答えの決まりきったことを聞いてくるのか分からなかったからだ。猫だか鳥だか分からない声が草むらから上がる。ふと、そうか知らないのか、と思い至った。騰蛇は私の願いなど知らなかったのだ。そうか、と彼女はただ納得した。その事実はいまさら彼女を傷つけなかった。
 勾陣はわざと大げさに肩をすくめてみせた。そして意識して綺麗に微笑んで。
「ああ、いいんだ」

 願いは、あった。ずっと昔に。

 ……もしも、願っていいのなら。もしも願いが叶うなら。
 あの孤独な男が救われるように。
 罪を忘れることなく、けれど彼が前を向けるような、そんな誰かが彼の前に現れるように。
 その誰かは、私でなくて構わないから。

 あの時流れ星が凶兆ではなくて願いを託すものだったとしたら、もしかしたら勾陣も口ずさんで祈ったのかもしれない。ああでも、少し長すぎて、流れ切る前に言えそうにないか。

「私の一番の願いは、千年前に叶ったから。だからもういいんだ」

 途端に紅蓮が胡乱な顔をする。顰められた眉が眉間に浅く皺を刻んでいる。勾陣はついと手を伸ばして、指先で彼の眉間をぐるぐる伸ばした。問いかけのために開かれた口が抗議を上げる。
「あ、こら、勾、何を」
「間抜け面。お前には教えてやるものか」
 何も知らないお前なんかには。
 それでも疑問を払拭できずに勾陣を見やる紅蓮の視線を、それきりすべて無視して仰向いた。紅蓮がもう一度口を開きそうな気配を感じて、星の瞬く隙間に「あ」と声を上げる。流れたものは気のせいを通り越して幻だ。流れたか? と紅蓮が言った。かもしれない、とだけ答えた。嘘ではない。見えない程度の流れ星があったかもしれない。流星群の日は誤魔化すのが楽でいいな、と、彼女はそんなことを思った。

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都合のいい何かで構わなかった。
 私が騰蛇を知ったとき、私が騰蛇を見つけたとき、騰蛇が私にとって些末な何かではなくなったとき、私は同時に、騰蛇は私のことなどいらないのだと気が付いた。騰蛇の世界は、騰蛇と、晴明と、彼の罪だけで完結しており、それを組み替えることができたのも昌浩ただ一人だけで、とどのつまり騰蛇は晴明と昌浩の二人以外をまったく必要としていなかった。同胞であるはずの私たちは、しかし十派一絡げに同胞という箱でくくられ、そこに私という個はいなかった。それに気付いたとき、私はひどく落ち着いていたと思う。驚愕することも愕然とすることもなく――当然だ、自惚れられるだけの積み重ねのひとつも私と騰蛇の間にはなかったのだから――ただ、すとんと、納得した。ああ、いないのだ。騰蛇の中に、私は、いないのだ。そしてそれは春の桜のように、夏の蝉のように、秋の紅葉のように、冬の雪のように、ありきたりな当たり前でしかないのだと、私はその現実を打ちのめされることなく受け入れた。
 私は私を彼に認識させねばならなかった。そのために選んだ一切の選択は、私が望んでしたことだ。それでも晴明はお前を赦すだろう、だから私も、この件でお前を責めることはもうしない、そんな言葉で騰蛇の罪を真っ先に赦したとき、誰もがそうだと誤解した公正な私などどこにもいなかった。一方的に傾いた天秤でただ騰蛇を選んだ。それから先も選び続けた。世界を掲げてしまえるまでに、私の天秤は壊れてしまっていた。
 赦し、寄り添い、叱咤し、支え、しかし私の声も言葉も感情も、やはり騰蛇には何の意味も持たなかったのだろう。いや、意味はあったのか。騰蛇は私の存在を認識し始めた。けれど騰蛇は相変わらず私を必要としなかったし、騰蛇の世界は私なしに丸く出来上がったままだった。私が騰蛇にとっての何かになれたと言うのなら――それは間違いなく、都合のいい何か、なのだろう。
 沈んだ感情を引き上げる相手、溜まった心を吐き出す相手、くじけそうな精神を支える相手。事実騰蛇は平時は私のことなど忘れているようだった。いや、騰蛇がふさぎ込んでいるときに私が進んで寄り添いに行ったという方が正しいのか。ならば都合のいい、という形容は、私がようやく手に入れることができた自惚れにすぎないのかもしれない。
 都合のいい何かで構わない。それが騰蛇の世界に入り込む術たりえるのならなんだっていい。騰蛇は彼が私に向ける感情を信頼だと信じきっている、いいや騰蛇がそう思っているのならその信頼こそが真実なのか、ならばこの矜持は少しも傷つかずにいられる。騰蛇、私はお前にとって都合のいい何かでい続けよう、それでお前の世界の片隅に在ることができるのならばそれでいい。
 そう思う心に、嘘はない、けれど。
「力が足りないと思うなら……」
 呟く。傍らには誰もいない。月明かりがやけに眩しい夜、安倍邸の屋根には私だけだ。
「……貸してやる、いくらでも」
 ふっと頬が緩んだ。不思議とその表情が俯瞰で見えた気がした。誰にも誤魔化せない自嘲だった。
 心からの本心を告げてなお、願いに似た剥き出しの感情を曝け出してなお、彼の戻る場所は、彼の定位置は決して私ではない。
 もしも騰蛇を奪い返すことができたのが私だったとしても、騰蛇はあの子供の許に帰っただろう。だから騰蛇は当然のこととして子供を選び、選んだという意識すらなく選び、そして時折子供には吐き出せない澱みの言葉を吐き出しに私を求め、また子供の傍へと帰っていく。
 それでいい。最初から知っていたことだ。

「報われないな」

 私を俯瞰で見下ろす私がそう呟いた。同情か、憐憫か、諦観か、その声はひどく静かで読み取れない。
「ああ」
 頷く。
 そんなこと、この恋の最初から、ずっと、知っていた。

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変わらない、と思っていた。確かに恋情を伴いつつも、自分たちの関係は永久に友情と信頼の延長線上にあり、関係性の名は変われど関係そのものが大きく変容することはないと、そう思っていた。そのくせ満たされない愛情を無視しながら安定した関係性を変えてしまうことは怖かったのだから不思議なものだ。
 そんな話をすると、左隣に落ち着いた勾陣は紅蓮を見上げて軽く首を傾げた。緩やかな夜風に黒髪がさらりと揺れる。
「私もだいたいは同意見だが、……『変わってしまった』か?」
 思わぬ問いかけに、紅蓮は瞬きをして少し考え込み、「いや」と呟く。否定的な感傷や惜しむべき何かは、少なくとも紅蓮の側には存在しない。
「変わって『しまった』、とかじゃないな。なんだ……『増えた』?」
 いまいち要領を得ない紅蓮の言葉に勾陣が吐いた息は呆れ混じりながら笑っていた。
「なんだそれは、と言いたいところだが、案外的を射ているな」
 不正解ではないらしいが、黒い瞳に入り混じる呆れの色が紅蓮にはやや面白くない。
「あやふやで悪かったな。こういうのはお前の得意分野だろう」
「言いだした側が何を」
 拗ねるなとまで言われてぐっと押し黙る。口論に勝てる道が見いだせなかったので、紅蓮はそれきり反論をやめた。諦めが早いのが面白かったのか、勾陣は軽く夜空を仰ぎながら声を殺して笑っている。
 とりとめもなくて気の置けない、不毛で心地のいい会話は変わらない部分のひとつだった。そうだ、完全に変わってしまったわけではない。二人の間柄は確実に変容を遂げながらけれど芯を留めたままだ。独占欲が信頼を損ねてしまうことはなく、庇護欲が束縛の形を取ることはなく、愛情が友情を完全に覆ってしまうことはなく。それでも確かに変わった部分がある。懐古さえ伴わず、良い悪いの価値観の外で気が付いたら変わっていた、そんな部分が。
 しばし考え込んだ紅蓮は、やがてふっと落ちてきた言葉に「ああ」と一人呟く。
「……許されることが増えた、か」
 だが、独り言として言ってしまった後で、紅蓮はいましがたの台詞を胸中に留めなかったことを大きく後悔した。斜め前方の空、昴のあたりを眺めていたはずの彼女の視線が隣から突き刺さる。頬をかすかに引き攣らせながら応えると、案の定、おそらくは紅蓮のそんな反応まで想定した、勾陣の興味深そうな(獲物を見つけたいたずらな猫のよう、とも言える)、彼にとっては経験上不穏の塊である微笑が目に入った。
「たとえば?」
 ここで「なんだ?」と発言を繰り返させるつもりであったのならまだ紅蓮にも何でもないで押し通す逃げ道があったのに、それも分かっていて具体例の提示を求めてくるあたり可愛げがない。相手の逃げ道を無意識に封じようとする、とでも言えば闘将の性分のように思えてくるが何のことはないただの性格だ。
 無言の時間をものともせず、むしろ赤い唇がにっと上がる。まったくもって逃がす気も見逃す気もないようで、夜の湖畔を映しとった双眸は紅蓮を捉え続けている。
 『たとえば』の内容は確かに紅蓮の中にいくつかあり、しかも我ながらご丁寧に既に言語化されてはいたが、それを実際に口に出すには紅蓮の性格上大いなる勇気が必要で、どうにものどが錆びついた。だってどう頑張っても甘くなる。甘い言葉をさらさらと口に出せる性格ならおそらくそもそも恒常的に彼女に面白がられる事態に陥ってはいない。
「騰蛇? どうした?」
 確信犯的な声音に、あぁもう、と紅蓮は半ば自棄になって、口を開く代わりに手を伸ばす。白い肌に触れ、肩を引き寄せ、言ってみろと続きかけた言葉を無理矢理食った。
 暴挙に女の肩が跳ね、不自然に硬直する。細い手が逃れようと力任せに紅蓮の両肩を押すが、彼が薄い下唇を柔く食むと、一度だけぴくりと小さく震えて、やがてゆっくりと彼女の体から力が抜けた。勾陣の頭を片手で支えて更に深く押し付ける。触れ合せたまま舌先でつつくと、それを合図に勾陣は軽く口を開き、侵入してきた舌に自ら絡ませた。添えられただけだったはずの手は、いつしか両方の腕が男の首に回っている。
 たとえば、紅蓮は強引な口づけがこれほど簡単に許されるなど思ってはいなかった。彼女の矜持に障りかねない行動だと考えていたし、合意を得ない力づくの行為は言ってしまえば暴力になりかねない。それがこうして許されて、むしろ彼女から求められる。堪えようとして耐え切れず時折漏れる吐息によく似た声はひどく甘い。引き寄せた肩は紅蓮からすれば十二分に華奢で、常に凛然と伸ばされすべてを預けるに足る背は思いのほか線が細く、けれどそれは不思議な愛しさを湧き上がらせるだけで、決して背を預ける不安を意味しない。
 変わってはいないのだろう。ただ許されることが増えて、知らなかった面を知って、それまで積み重ねた色々を損なうことなくまた新たに積み重ねた、それだけの話だ。預け合う背は変わらずに、けれど重ねる唇を許された。涼やかな声は変わらずに、けれど甘い喘ぎを耳にすることを許された。対等な視線は変わらずに、けれど熱に揺れる黒を覗くことを許された。それだけの話が愛おしく誇らしい。
 わざと小さな音を立てて離れると、紅蓮は勾陣を窺うように顎を引いた。力技に出たはいいが後続の表情が定まらず、迷った挙句その迷いを隠しきれない笑みを浮かべる。我ながらいまいち決まらない。
「……たとえば、こういう」
 だが、格好のからかいの種であるその表情を勾陣は指摘せず、むしろふいと視線を逸らした。彼女もまたどこか浮かべるべき表情に迷った顔をして、けれど口角がじわじわと弧を描く。「たわけ」と短い文句が飛んだ。白く夜闇に映えていた頬に色が散っていた。

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定められたテンプレートでもあるのかと思えるくらい聞き飽きた台詞で声をかけられて、天后はまたかと顔には出さずひどくうんざりした。天后が人型を取って街に出ることは回数としては多い方ではないが、ナンパだのスカウトだのに声をかけられるのは珍しいことではない。自分たちは人から願われて生まれた神だが、だからか、少なくともと言うべきか特にと言うべきか、自分たちの外見はどうやら人間の理想を上手く叶えているらしかった。
「一人? ねえ、俺らと遊ばない?」
 いかにも遊び好きな大学生と言うべき風貌の男が三人。天后の外見は第一印象として控えめ、大人しいといった類のイメージを与えやすいらしく(だから気を付けろと勾陣に言われた)、だからか男たちに緊張している様子はない。むしろ押していけばどうにかなるとさえ思っていそうに笑っている。確かに勾陣のような黙って佇んでいてもどこかから滲む凄味などは自分には足りていない要素だが。
「人を待っているの」
 これで彼らが引き下がるとは思っていなかったが、一応最低限の台詞は言っておく。もう少し年齢が上の男ならここで引き下がる者もいるのだが、いかにもな推定大学生たちは「いいじゃんそんなのほっといてさー」と無神経極まりない。経験上半分予想はしていたが、やっぱりかと、気付かれたら面倒なのでこっそりと、天后は息を吐いた。こんなでも種族としては安倍の者たちと同じ(そして天后ら十二神将の『親』とも言うべき)人間なのだと思うとなんだか悲しくなる。
 男たちを完全に無視して携帯を開くと、途端に彼らは不機嫌を醸した。
「えー、無視? 感じ悪いなぁ」
「俺ら優しーけど調子乗ってると怒るよ?」
 それ脅迫じゃないかしらと冷静に思いながらメールを打つ。男たちは次々言葉を重ねてくるが、近い距離と言えど駅前の雑踏に紛れて案外ノイズにもならない。とはいっても至近距離の下心は心をささくれ立たせるには充分だ。
「おい、返事くらい――」
「すまないが」
 ディスプレイに送信完了の文字が浮かんだのとほぼ同時に、荒げかけた男の声を遮って、よく通る低い声が綺麗に響いた。
 顔を上げて、天后の表情がぱっと明るくなる。見事なタイミングだ。
「勾陣」
「私の連れなんだ。返してくれないか」
 涼しい顔で男たちの間に割って入った勾陣は、そのままごくごく自然な動作で天后の腰を引き寄せる。少しだけ高い位置の双眸が面白そうに煌めいて天后を映す。意図を察した天后は返事の代わりに勾陣の右腕に抱きついた。たとえばちょうどカップルが腕を組むように。
 天后は意図してひどく甘えた声を出した。
「もう、遅いわ。久しぶりのデートなのに」
「悪かった。待たせた。怒ったか?」
「しらない。最近あんまりふたりでゆっくりできなかったから、凄く楽しみにしてたのよ」
「すまない、許してくれ。急いだんだ、これでも」
「分かってるわ、拗ねてみただけよ。でも、寂しかったのはほんとうなんだから」
「ああ、今日は埋めあわせだ。おいで」
 だんだん楽しくなってきた。勾陣も心底可笑しいのを堪えている様子で天后の頭を数度撫でる。実際に気持ちよくて天后は小さく肩をすくめた。
 一方で男たちの気配もさっと変わった。待ち合わせ相手も女だったからどうせなら二人とも、なんて舐めたことを考えているような余裕綽々のものだったのが今は困惑を隠さず、表情に至ってはむしろドン引きを顕わにしている。
「え、いや……え?」
「あの、だって、女」
「ええ、だから」
 天后の言葉を引き継いで、勾陣は天后でさえ滅多にお目にかからないほど清々しく爽やかな笑顔で畳み掛けた。
「私たちはこういうわけだから。性別的に無理なんだ、他をあたってくれ」
 流石にそれでもとアタックしてくる図太さは持ち合わせていなかったらしい、男たちはすみませんでしたなどとぼそぼそ言いながら人混みに消えた。姿が完全に見えなくなったのを確認して腕を解く。どうやら微妙に周囲の注目を引いたらしく、ちらと周りを窺うとメールを打っているのかSNSに書き込んでいるのか、こちらを見ながら携帯片手に忙しなく指を動かしている人が何人かいた。
「ありがとう、勾陣。助かったわ」
 ちょうどメールを送ったところだったの、と言うと、勾陣は「そうだったのか」と携帯を確認した。
「まったく、毎度飽きずに沸いてくるものだな、ああいう手合いは」
「ほんとに」
 ナンパを受ける回数、がぶっちぎりで多いのが天后と勾陣の両名だった。理由は単純で、天一は常に朱雀と行動を共にしていて、太陰は完全なるお子様、逆ナンをしかける女の絶対数そのものがナンパ男よりは少ないだろうことが上げられる。それに二人とも外見年齢的にちょうど女子大学生で、そういう部分もきっと余計なものを引っかける要素となっているのだろう。
「だが、よく効くな、これ」
「ね」
 天后と勾陣が同性愛カップルのふりをしてナンパを撃退するのはこれが初めてではない。
 最初に仕掛けたのは天后の方で、今日のように勾陣の腕を組んで甘えた声を出してみた。勾陣も面白がって即座に乗った。今日と同じようにやっているうちに楽しくなって、それが自然と二人の世界に入り込んでいるように見えるらしい。面白いし楽だし即効性があるしで二人とも気に入っている。別に嘘を吐くわけでも極端な演技をするわけでもない。ただちょっと誤解を招くような態度で誤解を招くような雰囲気で誤解を招くような言葉を選ぶだけだ。同性同士で遊ぶことをデートと呼ぶ文化は彰子から教わった。
 余談だが、これを知った青龍からお前らがやると洒落にならんやめろと叱られた。どうやら勾陣も騰蛇から同じようなことを言われたらしい。何が洒落にならないのかはよく分からない。他の誰かならともかく正真正銘の恋人から言われるとは思っていなかったし、見た目として洒落にならないところで自分たちは異性愛者だ。
「だが、待たせて悪かった。もう少し早く来ればお前も絡まれずに済んだのに」
「いいのよ、私も少し早かったから」
 行きましょう、と促して歩き出す。それにあの男たちなら勾陣が早く来ていたところで二人まとめて声をかけて来ただろう。流れとしては同じようなものになったはずだ。そう言うと、そうかもしれないなと勾陣は苦笑した。「引き際を知らない奴が多くて困る」と勾陣は肩をすくめる。彼女は気の強さが外見にも現れているが、そんな彼女に勇敢にもと言うべきか愚かにもと言うべきか声をかけてくる男というのはやはり結構いるわけで、しかも気の強い女と認識して声をかけてくる輩な分、面倒くさいタイプに絡まれる率は天后より上なのだろう。
「……きゃっ!?」
「っと」
 そんな会話の最中、歩道の小さな凹凸に足を取られてこけかけたのを、隣の勾陣が察知して支えてくれた。おかげで無事だ。
「ありがとう」
「気を付けろ」
 人型を取ることがさほど多くない分、ヒールにはどうも慣れていない。素足の感覚で歩くとすぐバランスを崩す。一方の勾陣は危なげのない足取りだ。
 そう言えば今の勾陣の支え方や手の差しだし方はいたくスマートだった。もしも彼女が男性だったなら今の流れはいい具合にカップルの図として見えただろう。青龍が洒落にならないと言っていたのはもしかしてこういうことなのかなと、天后は今更ながらにうっすら思い至った。

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こんなにも待っているんだよ






 天狐凌壽の一件の際十二神将全員を襲った勾陣の死を報せる衝撃は、どうやら紅蓮にのみに、予期せぬ、そして勾陣にとっては幸運な、ひとつ特別な後遺症を残したようだった。
 その事実に勾陣は比較的、と言うより紅蓮本人よりも早く気が付いた。気付かぬはずがない。その『後遺症』は勾陣がうっすらと望みながら諦めて思い描くたびに愚かだと自分を嘲った反実仮想そのものであったのだから。
 それはたとえばうんざりするほど真剣な、彼女の身を案じるが故の説教となって現れた。信頼はすれど対等であれどそれまで勾陣に対する程よい無関心を保っていた紅蓮がはっきりと見せたある種の執着と呼んでもよいだろうその態度に、すぐに面倒くさい気持ちが勝ってしまったが、勾陣は初めひどく驚いた。紅蓮のそんな何かが自分に向かうわけはないと思っていたのだ。処理しあぐねた沈鬱な感情を読み取られたことはあれど、偶然と勾陣からの接近をもってしか彼女と接しなかった彼が、わざわざ体に障るから異界に戻れなどと、最初から勾陣が素直に聞きいれたことのない説教をするためにわざわざ彼女の傍らまで駆けつけるなど、それまでの紅蓮と自分を思えばありえないと言っていいことだったのである。その変化を見つけたのは勾陣だけであるようだった。晴明や昌浩は紅蓮から案じられることを当然の権利として享受しており彼らからすれば紅蓮の行動は自分たちにも向く極めて当然のものであって、他の同胞たちはその程度の変化に目ざとく気付くほど紅蓮に対して興味を抱いてはいなかった。
 今までの紅蓮なら、そんなことはしなかった。都から離れた出雲の地にいる勾陣と、勾陣のみと話すためだけに毎日水鏡を繋ぐなんてまめな真似も、心配を突き抜けてしまった本気の叱咤を向けることも、当然のように彼女の傍らに陣取ることも、重要な局面を彼女に全て託すことも、勾陣が知っていたそれまでの紅蓮ならするはずのないことばかりだ。
 そして、平和な時を持て余した際、勾陣にちらちらと視線を向けては不自然にそれを逸らすなんてことも。
「――どうした?」
 さも今気づきましたと言わんばかりに白い物の怪を見やると、彼は慌てたように尻尾を振った。
「別になんでもない」
「そうか」
 さらりと引き下がってやると、物の怪は安堵に二割の落胆を交えたような息を吐いた。
 昌浩と共に菅生の郷に留まってからしばらく、彼の視線を受けることが増えた。有事の際には意識の片隅に追いやれていたはずの心情が暇を持て余すと同時に浮上して、その扱いに困っているらしい。もちろんこれは彼女の勝手な見解にすぎないが、間違いでも自惚れでもないはずだ。洞察力は自負している。
 勾陣はそっと左の口角を上げた。

 ――いい気味だ。

 浮かんでくるのがそんな言葉なあたり我ながら相当にいい性格をしている。
 一方的な感情だった。友情ばかり返される愛情だった。想うだけで満足する以外に満ちる道などない心だった。だから、強がりでもなんでもなく、それで構わないと思っていた。実際に彼からの信頼で勾陣の感情は飢えずにいられた。
 それが今、紅蓮の方が、彼女の感情に無邪気に気付かないままだった――いや、今も気付いてはいないのか――男が、信頼と友情を核に生じた『何か』を持て余している。勾陣が一方的に向け続けた心に酷似した『何か』を。それが向かう先は勾陣なのだ。それを思うだけでじんわりと胸が熱を帯びる。
 彼の両腕は晴明と昌浩のものだ。その命もその忠誠も。
 けれど、私のものだ。その感情でもって私を追う黄金と夕暮れの視線だけは私のものだ。
 悩めばいい、きっと初めてだろう感情を処理しきれずに持て余して扱いあぐねて気づかないふりの私に落胆して、諦めさせてはやらない、満足させてもやらない、そしてどうしようもなくなって私を求めてくればいい。
 だから待つくらいいいだろう。お前よりずっと早くからお前のことを想っていたのだから、言葉くらい先にくれたっていいだろう。
 そうしたらいくらでもお前のものになってやる。

 気のせいのような息吐く音がした。傍らから感じる視線は少し居心地が悪くそれ以上に心地いい。それだけで報われぬ一方通行の日々が今更満たされる。それにしてもわかりやすすぎる、彼はこんなに分かりやすいのに誰も自分たちのこの上なく強固でありながら奇妙に揺らめく関係の変化に気付かないのが少し不思議で可笑しかった。
 心地のよい風が吹いたのをこれ幸いと瞼を閉じて薄く微笑んだ。
 ほら。
 知らないふりを貫いて、不器用な男に届かせる気のない言葉で語りかける。

 ほら、早く私を奪いに来い。

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紅蓮を見下ろしている勾陣が、面白くなさそうに瞬いた。
「防御するな。つまらん」
「あいにくというか残念なことにというかこっちも大体慣れたんでなこの展開……」
 頬を引き攣らせ、紅蓮は自分の台詞に思わず遠い目をした。慣れること自体がどう考えてもおかしい。奇妙な理不尽のままに紅蓮は吠えた。
「と言うか、俺が慣れたこともおかしいし、慣れるほど押し倒そうとするなお前も!」
 その勢いのままに肩にかけられていた細腕をどかそうとするが、彼女はそれに抵抗してその手にさらなる力を込める。なんだこの状況と自問自答しながら紅蓮はしかしゆっくりと白い手を引き剥がして、後ろ手についた片腕一本で支えていた半身を起こした。不意打ちなら多少の不覚もとるが正面からの力比べなら彼女に負けるはずもないし、勾陣の方も勝てるなんて思っていないはずだ。
 勾陣は膝立ちのまま肩をすくめる。その表情が悪戯に失敗した傍から次の案を考えている子供に通じて見えて紅蓮の不穏な予感を煽った。
 何のきっかけがあったわけでもない。唐突に押し倒されかけて、これまでの経験から体が反射的に的確な行動を取った、ら不服そうな顔をされた。
「なんかまたこのパターンかと自分でも思うんだが、普通慣れるのはお前の方じゃないかこれ」
「押し倒されるのくらい私も慣れたが」
「違うそういう話じゃない…っ」
 さっくりと返されて力が抜ける。思わず手で額を覆った彼に「お互い様というやつだ」などという連撃が飛んだ。これはお互い様である必要なんてない。だが言ったところで意味のない言葉は結局紅蓮の胸中で空しく霧散した。
 そんな紅蓮を見てくつくつ笑った勾陣は、「まあ、諦めろ」と言って顔を上げた紅蓮の唇をさらった。流れるように自然な動作である。自分に備わっていた方が話が色々簡単だっただろうスマートさだが、そういう自分が想像できないので彼女の台詞は悲しいかな間違っていない。だが男として忸怩たるものがあるのも確かである。
 複雑な胸のうちを持てまして息を吐いた紅蓮に「そんなに言うなら」と勾陣は口角を上げる。
「先手必勝だ、お前からやればいいだろう、騰蛇」
「やったら怒るだろうがお前……」
「ムードとか流れとか次第だな。がんばれ」
 がんばれ、がものすごくやる気なさげに響いた。と思ったら細い両腕が紅蓮の肩にかかりまた圧し掛かられた(そして紅蓮はまた後ろ手をつく羽目になった)ので実際適当に発したのだろう。至近距離の瞳が悪戯じみながら妖艶に深くなる。透明で鋭い黒曜が様々な色を帯びる、それは艶でだったりいとけなさであったり憂いであったり喜悦であったり揺らぎであったり熱であったり、その様を眺めることが紅蓮はとても好きだった。
「不満か?」
 細い指が頬に触れる。
 紅蓮はひとつ笑って片腕を伸ばし、瞼に口付けたいなんてことを考えながら微笑んだ。
「いいや。光栄だ」












「ねえ朱雀と天一にも言ったんだけど仲いいのはいいから取り敢えず家に颯峰いる間くらい部屋以外でそういうの自重しない?」
 唐突に投げかけられた声の方を二人同時に見やると、慣れ切った様子で呆れを隠さない学校帰りの昌浩の隣で居候の天狗が固まっていた。

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不満があるわけではないがしかしやはり何か違うのではないだろうか、という紅蓮の疑問は「あまり深く考えるな」という台詞でさっくりと存在を却下された。
「あのな、お前、原因が何を」
「お前が世話を焼きたがっているだけだろう」
 確かに勾陣が作ってくれと頼んできているわけではない。人のことには良く気付くくせに自分のことには基本無頓着な勾陣が食事にまで無頓着なのを見かねた紅蓮がちゃんと食えとばかりにアパートに上がり込んで台所を占拠しているだけ、とは言える。
 とはいえ人の好意を無碍にするような台詞に引っ掛かりを覚えて紅蓮の目が据わる。勝手にやっているようなことではあるのだが、と自分を落ち着かせる理屈を脳内で捏ねたタイミングで、テーブルの45°向かいに座っている勾陣がスプーンを口に運んで「美味しい」と笑った。どう考えても計算である。だがその計算通りに頬が緩んだ自分がいて結構どうしようもない。
 四限後の休み時間にすれ違った際、今日何が食べたいと聞いてオムライスと答えられたのでリクエストに応じた。その際教室移動を共にしていた友人に何か違わないかそれと突っ込まれたのが冒頭の疑問に繋がる。ちなみに卵は半熟のやつがいいと言われたのは無視した。そんなものを紅蓮に求められても困る。
「不満があるなら明日は私が作ってやろうか」
「いや、そういう問題でもないんだが」
「そういう流れじゃないのか、これは」
「……そうなるのか?」
 言われてみればそうなる気もする。
 煮え切らない紅蓮に「じゃあどうして欲しいんだ、お前は」と勾陣は呆れ顔だ。
 だがその答えは最初から一貫して決まっている。
「俺はお前がちゃんと食ってちゃんと生活してればそれでいいんだが」
「ちゃんと食べているだがな」
「どこがだ。平気で飯抜くだろお前」でなければわざわざ紅蓮が俺が作ってやるからとにかく食えなどという理屈で彼女の部屋の台所を動き回るわけがない。「器具も食材も調味料も揃ってるんだから飯くらい毎日食べろ、コンビニでもいいから」
「面倒だ」
「食事を面倒とか言うなよ……」
 一言で言いきられて力の抜けた紅蓮に勾陣はかまわず追撃をかけた。
「いや、食べるのじゃなくて、作ったり買ったりするのが」
「……さいですか」
 そうだよなそもそもこの程度の説教で生活習慣が改善するくらいなら俺が強硬手段に出る必要性もないよな、あぁうん知ってる実はちょっと諦めてる、と紅蓮は息を吐いて自分の分のオムライスをつついた。そもそも勾陣は人並み以上の手先の器用さを相殺するくらいに大雑把な性格をしていて本人はそれを是正するつもりもない。
「それに、自作や外食よりお前の料理の方が好きだしな」
 スプーンを口に運ぼうとしていた手が止まった。勾陣を見やるとうっかり目が合った。口を動かしながらどうしたと問うてくるその視線に先ほど見えた計算の気配は見当たらない。
「……勾、いまのは」
「なんだ、聞こえなかったのか?」
 麦茶を一口飲んで、せっかく褒めたのに、と言う勾陣の声音は何の意図も見当たらず透明だ。
 勾陣は頭がいい。そしてとてもいい性格をしている。少なくとも紅蓮に対しては自分の言動がもたらす結果を把握した上でくつくつ笑いながら紅蓮を転がそうとする。そして紅蓮はたまに文句を言いつつ結局いいように翻弄されている。だが紅蓮にとって真にたちが悪いのが稀に覗かせる無意識の本心だ。
 しかしやっぱり何か違う。というか、逆である。少なくとも今の彼女の台詞の類を一般的に口にするとされているのは男の方で、台詞だけ抜きだしたらきっと夫から妻へとかそういう分類だ。
 ここでもうしょうがないか勾だしと諦めてしまうのが彼の敗北の原因なのだろう。とは言えたぶん世間一般的な女を勾陣に求めることはきっとさらに間違っている。
 そして勾陣が美味しそうに自分の料理を食べている様を見ることは紅蓮の幸せの一つでもあるので、結局まあいいかという結論に落ち着くのである。そういう意味であまり深く考えるなという勾陣の台詞は正しいのかもしれない。深く考えたところで行き着く結論が同じなら無駄に考え込むのは確かに不毛だ。
 紅蓮の頭の中で既に何度目かになる一人議論がそんな風に終幕した頃、「ごちそうさま、美味しかったよ」と勾陣が手を合わせた。

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少年陰陽師・紅勾を中心に絶えず何かしら萌えor燃えている学生。
楽観主義者。突っ込み役。言葉選ばなさに定評がある。
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