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Be praying. Be praying. Be praying.
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only "I love you"




書いてるうちに自分で何書いてるかわかんなくなってきました。
大学生紅慧。
こてこてべたべたの王道少女漫画展開になりましたがまあたまには。
取り敢えず反動で泰然自若に傍若無人な女王様勾陣が無性に書きたくなりました(笑)

 恋愛のセオリーは少しずつ相手と距離を詰めていくことにあるが、紅蓮の場合は恐ろしいまでの衝撃で彼をゆすぶった自覚からこのかた、慧斗と若干の距離を取ることに腐心した。なにせ、彼女との心理的距離は長く長く積み重なったこれまでの時間のおかげで、少なくとも現在望める限りにおいては、すでに極まっていたのである。昔から互いのことを知っていて、手を抜いた会話でもきちんと伝わって、わずかな異変もなんとなく気がついて――さらに二人で宅飲みすることも珍しくなく、かつ互いにそんなことをする異性は互いだけという状況は、他の男に対する大きなアドバンテージで、しかし紅蓮にとっては困惑の種であった。距離が近すぎるのである。紅蓮は慧斗が大事だった。それは何者にも拘束されない純然たる事実だ。もちろん自覚の有無など関係あるはずもない。紅蓮は彼の世界のいちばん目立つ場所で笑っている彼女を、自分自身気づかないままに、宝石のように崇めていた。今までは友情だからよかった。すべての愛は綺麗に友情を模って、紅蓮自身を含めたこの世界の何もかもを上手に騙した。だが、もう、違う。友情からでなければならない一切の行動は油断すればたやすく恋情からのそれに変わろうとする。慧斗は観察眼に優れているから、ひとかけらでも友情の皮が剥がれたが最後、彼女はすべて暴いてしまうだろう。だが、感情の奔流を友情に擬態させることは、慣れていないこともあってひどく難しく――だから彼は一歩引いた。
 紅蓮の判断は幾分か冷静になるという目的のためにおいては正しかった。彼女を間近に感じなければ、紅蓮は丁寧に形作った友情に心を留めておけた。自覚に伴って感情の核が変わったわけではなかったことが大きい。慧斗にずっと傍にいてほしい、紅蓮の第一の願いはそれからわずかもぶれはしない。慧斗が傍にいることが当たり前だと思っていたときから――当たり前だと思ってしまうほど――それは純粋な願いだったのだ。
 だが、紅蓮はひとつ間違った。観察眼に優れる彼女が、昔から互いのことを知っていて、手を抜いた会話でもきちんと伝わって、わずかな異変もなんとなく気がつく程に紅蓮と親しい彼女が、彼がわざと距離を置いたことに気づかないわけがなかったのだ。そしてもうひとつ、そのことに気づいた後の慧斗の行動を、彼は致命的に読み違えていた。慧斗の性格なら紅蓮が不審な様子を見せたらそれとなく窺うように、あるいは微笑みながら詰問のように問いつめてくるはずで、だからそれがない以上は、慧斗から見ての自分はひとまず普段通りであるはずだと思っていたのだ。
「それで、貴方いったい慧斗に何したの」
 天后の言葉は、勘違いに安穏とする紅蓮の計算違いを淡泊に指摘した。
 紅蓮と天后の学部は違うが、天后が自由科目で取った授業が紅蓮の選択科目と被ったため、金曜四限は必ず彼女と顔を合わせている。と言ってもわざわざ隣合って座るというわけでもなく、目が合えば適当に会話をする程度だ。天后ともそれなりの付き合いになるが、嫌いなわけでも疎ましいわけでもないものの性格の根本がどうも合わない相手は人間誰にでもいるものである。天后は天后で紅蓮を気に食わないと真っ向から言ってはばからないが、その清々しさは紅蓮にとってはいっそ好感である。彼女の方も、まあ、紅蓮のことは、一応、普通以下というまではいかないようだ。
 それが今日に限って、受講者がいっぱいに入っても席に余裕がある大教室でわざわざ隣にやってきて何を言うかと思えば、上記の通りである。唐突な台詞の文脈が全く読めず、紅蓮は「は?」と間抜けた声を上げた。
「だから、貴方慧斗に何したの?」
「いや、『だから』じゃない、話が見えん」
 天后の中では明確な道筋を持った理論帰結なのだろうが、彼女が何をどう結びつけているのか紅蓮にはさっぱりである。何をしたかと問われて心当たりはない状況なのだ。
 天后は不思議そうにまじまじと紅蓮を見て、諦めたように深く背凭れた。
「ほんとうに何もないみたいね」
「いや、あのな、だから、分かるように言ってくれないか」
「……慧斗が」
 鞄の中からペンケースとファイルを取り出しながら、天后は言う。
「慧斗が言ってたの、紅蓮の様子がおかしい、私は何かしたかな、って。慧斗に心当たりがないなら貴方が勝手に何かして勝手に何か気にしてる可能性が高いと思ったから聞いたんだけど」
「……そこであいつが俺に知らず知らずのうちに何かしたっていう可能性は出てこないのか」
「ないでしょ?」
 きょとんと、さも当たり前のように紅蓮のささやかな抗議を全否定する天后に、それ以上追撃する気も失せて紅蓮は彼女の言い分をすべて受け入れた。どうせ天后は絶対的に慧斗の味方なのだ。
「心当たりはないぞ」
「そう。まあ、それはどうでもいいの」
 何かしたのか、と尋ねてきた当人は紅蓮の答えをさらりと流した。理不尽な扱いに言葉を失う紅蓮を一瞥した天后の目が奥深くでぎらぎらして、怒っている。なぜか天后は慧斗に何かあったときだけ紅蓮に対して辛辣になるのだ。普段はせいぜい淡白な扱い止まりであるにも関わらず。
「何もないなら何もないって弁明しなさいよ。あの子落ち込んでるから」
「結局俺の……、って」
 さらりと言われた内容に目を剥く。
「落ち込んでる?」
「……気づいてなかったの!?」
 天后は紅蓮以上に驚いた様子で声を荒げた。数名の学生が視線を寄越してきたが、天后はそれらを気にすることなく半眼で紅蓮を睨む。
 驚くのは紅蓮の方だ。だって慧斗は普段通りで――彼女を意識しすぎて内心みっともなくあたふたしている紅蓮など気にもせず、憎たらしいほど泰然自若としている。その様にまた見惚れそうになって、慌てて視線を外すことをもう何度繰り返したか。
 信じられない、なんで、と呟く天后は、不機嫌さを隠そうともしない。
「それは慧斗がそう振る舞ってるからよ。元々人に頼ることが苦手だけど、貴方の前ではあの子とりわけ気負うんだから」
「……な、んで、そんな」
「本人いわく、あいつにみっともないところは見せられない」
 ぴし、と白い人差し指を突き付けられて軽くのけぞる。徐々に人が増えてきたはずの教室で、しかし二人の周囲だけやけに音が遠かった。
「………もしかして、あいつ」
 紅蓮が距離を置いたことに気づいていた? それでいて何も言わなかった? どうして? 紅蓮の知る慧斗と言う女なら、間違いなく、半分面白がりなら詰問の勢いで理由を暴きに来るはずなのに。
 呆然とする紅蓮に天后は一切の容赦もない。
「何か心当たり見つけたの?」
「あ、いや……その、あいつ、俺が距離を置こうとしたことを…」
「気づかないわけないじゃない。慧斗よ? はたから見てる私だって分かったことなのに」
「なっ……」
 ぽんぽんと明らかになる事実の処理が追いつかない。気づいていた、それでいて何も言ってこない、落ち込んでいる、天后の言葉をひとつひとつ星座のように結んで輪郭を得たものは、
 ――傷つけ、た?
 そのかたちを導き出した瞬間、血の気が引いた。
 それは紅蓮が最も望まないことだ。
 あってはならなかったことだ。
「取り敢えず、慧斗にいらない不安抱えさせるくらいなら告白でもなんでもして撃沈してきなさい」
「あ、あ……、って、は!?」
 今日天后がぶん投げてきた中で一番の爆弾発言に思わず身を乗り出す。天后は眉を顰め、大げさに息を吐いた。
「分かりやすいのよ、貴方は。慧斗だけ明確に特別扱いしてるじゃない」
「……あいつは?」
「気づいてないわよ。気づこうとしない、のかしら」
「慧斗は、俺を…」
「知りたいの?」
 少し迷って、紅蓮は首をゆっくりと横に振った。カンニングは卑怯だ。もし――もしも慧斗が紅蓮を好いていてくれたとしても、答えを覗いた揚句の行動など彼女は評価しないだろう。何よりその方法を取ることは自分が許せなかった。
 天后は今日初めての笑みを見せる。紅蓮の答えは、少なくとも天后にとっては及第点だったようだ。
「別に首を突っ込むつもりはないけれど。でも、嫌いじゃないってことだけは、早く伝えてあげなさいよ」
「天后、頼まれてくれないか」
 言ったそばから紅蓮はペンケースやファイルを鞄の中に放っていく。
 きっと一時間や二時間、大した違いではないだろう。今日はこれで授業もすべて終わるから、その後でも何も変わらない。だが、心が浮足立って仕方がなかった。このままここに残ったところで悶々とし続けるのは目に見えていて、ならば授業を受ける価値もない。そもそも慧斗に勝る価値など紅蓮は他の何にも見いだせない。
 謝らなければ。傷つけてしまったのなら謝らなければ。嫌いではない、嫌いになるわけがない。それどころか紅蓮は彼女を――
「月曜にノート、コピーさせてくれ」
「いいわよ。サービス、代返もしておいてあげる」
「すまん、助かる!」
 もう二分もすればチャイムが鳴るのにわたわたと教室を飛び出した紅蓮を、何名かの学生が不思議そうに見ているのが分かる。そんなもの気にしている暇はない。ポケットの中のバイクのキーを掴む。なぜこんなに急いているのか自分でも分からない、だが、慧斗が勘違いをしたまま紅蓮に背を向けてしまう未来がノイズ交じりに脳裏をよぎるだけで呼吸が怪しくなった。その未来を紅蓮自らが描こうとしていたことにも心臓が冷たくなる。彼女に会って何を言うつもりかも纏まらないまま衝動に突き動かされる。駐輪場に着いたとき、始業のチャイムが聞こえてきた。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 バイクを走らせれば彼女のアパートまではすぐだ。道中何かいろいろ考えていたような気がするのだが、エンジンを切ったときには記憶はするりと抜け落ちていた。探し出す価値もないと判断してそのまま捨て置く。駐輪場に慧斗のものと思われる自転車を確認して、連絡も何もしていなかったことに気付く。ポケットから携帯を取り出そうとして少し考え、そのまま階段を駆け上がった。心臓を急かし続ける何かに彼は従った。とにかく早く彼女に会いたかった。
 表札のない数字だけが違うドアがいくつも並んでいるが、今更部屋を迷うわけもない。インターホンに伸ばした指が一瞬躊躇う。押した途端に生じた後悔と逃げ出したい衝動を、彼は唾液とともに嚥下した。
 彼女を待つ時間がひどくもどかしい。紅蓮の内部を流れる時間だけが世界から切り離されて猛然と針を回していた。奇妙に音が聞こえない。自分の呼吸音だけが鮮明だった。数えて数十秒にも満たない間が気が遠くなるほど長かった。
「――紅蓮!?」
 ドアの向こうから驚愕に塗りたくられた声が漏れ聞こえてきたかと思ったら即座にドアが開いた。瞬間的に最高潮にまで振り切れた緊張が、いたずらに紅蓮から呼吸を取り上げる。
「どうした、紅蓮。連絡もせずに」
 純粋に驚いていた慧斗の双眸が、ふ、と異なる色を瞬かせると、彼女は途端に表情を厳しくした。
「……何があった?」
 きれいな黒い双子石が丁寧に紅蓮を窺っている。堅い声が無限大に優しい。何を、と聞き返そうとして、思い至る。緊張して思い詰めた様子で、荒い息をしながら連絡もせずに訪ねてきた紅蓮を、慧斗が心配しないはずがなかったのだ。ここ最近は常にこうだ。大事なのだと言いながら、理解していると自惚れながら、自分の感情に手一杯で少し頭を働かせれば見えるはずの慧斗のことがなおざりになる。もしかしたら今までもずっとこうだったのかもしれない。分かったふりをしながら何も見えていない滑稽を晒していたのかもしれない。だのに慧斗は紅蓮のことを細やかに見つけてくれるのだ。最初からずっと、そうだった。
 それで彼女を好きだなんて。なんて滑稽の極みだろう。
 それでも。
「紅蓮……?」
 慧斗の声は感情の吐露を促すように心の中に忍び込み、
 優しさに自制も瓦解して、
 音を立てて雪崩れる感情が、

(あ、)

 どうしよう、
 この女を、今すぐ、

 抱きしめたい。

 生じた衝動さえ行動の後追いにすぎなかった。目眩を起こすほどの感情の怒濤をやり過ごしたとき、紅蓮はそれを知った。わずかばかりの後悔もなかった。腕の中に捕らえた慧斗の存在は、そんなものをたやすくかき消すほどに彼の幸福そのものだった。細い細いと思っていた肉体が意外なほどに柔らかい。しかし網膜に焼き付いた凛然たる立ち姿を裏切る華奢な輪郭に愕然とする。力加減を間違えれば彼女を手折ってしまいそうで、けれどもっと強く抱きしめたくて、どうしていいか分からなくなる。こうして腕の中に収めてしまえば覗えなくなる表情に、決して小柄ではない彼女の、その小ささを突き付けられて愕然とした。慧斗は紅蓮の暴挙に理解が追いつかないのか呆然と身を固くしている。
「…れ、ん?」
 戸惑い震える声が、少しくぐもって紅蓮に届いた。
 やがて慧斗は現状を理解したらしく、肉の薄い肩がぴくりと動いたかと思えば思いがけず強い力で腹を押すと、無理矢理紅蓮を引き剥がした。そのまま手首を掴まれる。
「と、にかく、入れ、玄関先で何をするんだ貴様は!」
 貴様呼ばわりと荒げられた声に彼女を怒らせたらしいことは誰の目にも明白だったが、紅蓮はと言えば腕を引かれるままに従いながら、彼女の赤らんだ目許にときめくばかりだった。幾分力任せに音を立ててドアを閉めると、慧斗は感情の読めない微笑を浮かべて紅蓮を見上げた。それは普段よく見る繊細な仮面ではない。判断のつかないほど様々な激情が混ざり合って彼女を駆り立てているようだった。
「で」慧斗が口を開く。「いきなり何の冗談だ? 紅蓮」
 努めて押さえつけようとした情がぽろぽろと零れている声に、思わず紅蓮は悪いと口走りそうになって――開きかけた唇を慌ててつぐんだ。謝罪などすればそれは慧斗の言う『冗談』を肯定することに他ならない。もう冗談で逃げ切れるラインはとっくに越えている。今更尻尾を巻いたところでそれは彼女を失望させた上にこれから先本気の言葉が相手にされなくなる二重の悪手だ。彼女からの友情さえも自らの失態で失うことだけはできなかった。
 言葉がのどに引っかかって出てこない。言いたいことがある。見つけたばかりの、まだ紅蓮に馴染まない、ずっと前から無造作に握っていたたくさんのこと。その真ん中にあるたったひとつのこと。
 お前が、
「すき、だ」
 それだけ、音になった。
 諦めて背を向けようとした慧斗の動きが不自然に止まる。ぎりぎりとガラクタ人形のような動きで紅蓮と目を合わせた彼女は驚愕すら奪い取られた無表情で、赤いくちびるが恐れるようにわなないていた。しんとした狭い玄関で、自殺志願者よろしく限界知らずに駆け続ける心臓の音が慧斗にも聞こえるかと思うほど響いている。
 ふ、と、慧斗が笑った――自嘲のように。
「……紅蓮。いくらなんでも、冗談が過ぎる」
 声が、何かを――それが紅蓮でないことは分かったが――懸命に否定して頑なだ。
「どういうつもりだ? 今なら怒らないから、説明しろ。たちが悪いぞ、お前らしくもない」
 瞬間、足元が崩れてぐるりと真空に放り出された気がした。愕然と、強すぎる衝撃に目の焦点すらおぼつかなくなる。再び鮮明に結ばれた視界では慧斗が傷ついたように首を傾げていた。紅蓮はただただ瞬きを繰り返す。届いていない。紅蓮の言葉が、心が、彼女に届いていない。拒絶されている。一笑に付されてありえないと振られるならまだましだった。いま、慧斗は紅蓮の感情を受け入れようとさえしない。
 そのくせ痛みを堪えるように白い指先が震えている。
「勾、ちが、」
「答えろ、紅蓮。何がしたい」
 のどの奥が痛い。泣きたくなった。
 彼女が、遠い。
 なんで信じてくれないんだ。なんで届かないんだ。なんでそんなことを言うんだ。なんでお前がそんな顔をするんだ。
 なんでだ。なんで。
 ――どうして分かってくれないんだ!
 激情に任せて、無理矢理彼女の肩を掴むと力任せに抱き寄せる。先ほどよりも強く強く。慧斗が息を詰めたのが分かったが、気を使ってやることはできなかった。代わりのように彼女を自分に押し付ける。
 なあ、いま俺の心臓がどれだけうるさいか聞こえるだろう?
「勾。……勾、慧斗。す、きだ。好きだ。…勾……」
 言葉をひとつ絞り出すために、寿命ごと削られている錯覚がする。それでも繰り返した。他の言葉を知らないように。
 勾。
 好きだ。
「なあ、……なあ、別にいいから。受け入れてくれなくても、いいから。だから…せめて、分かってくれ。本気だ。ほんとうなんだ。ほんとうに、俺は、お前が――」
 友情が崩れることが怖かった。拒絶されることが怖かった。そればかりが不安で、分かってさえもらえないなんて考えもしなかった。それがこんなに嫌だなんて知っているわけがなかった。誰よりも誰よりも紅蓮を理解しているはずの慧斗が紅蓮の感情に気づきもせず壊そうとするなんてありえていいはずがなかった。なのに、なんでだろう。俺は何かを間違ったのか?
 いつの間にか慧斗の体からは完全に力が抜けていた。何か言葉を発する様子もなく、ただ紅蓮に体重を預けている。
「勾……」
 呼びかけにも応えてくれる様子はない。彼女はひたすら耐えるように呼吸を繰り返すだけだ。
 駄目、なのか。
 ふと、これではまるで色よい返事をもらうまで彼女を拘束し続けるように思われることに気づいて、紅蓮は懸命に腕から力を抜いた。慧斗の表情は分からない。だが、傷つけてしまった、らしい。やはり慧斗は紅蓮のことなどなんとも思っていなかったのだろう。急にやってきていきなり感情を押し付けて、分かってくれと駄々をこねて。受け入れてくれなくて構わないからと言った舌の根も乾かぬうちに都合のいい展開想像が裏切られたことに身体の芯が勝手に痛がっている。ばかみたいだ。これから先触れることなんて許してくれないだろうと考えると閉じ込めた体温が急に離しがたくなったが、紅蓮は最後の名残を惜しむようにゆるゆると彼女にしがみつこうとする両腕を剥ぎ取り少し距離を取って――
 頑張って微笑もうとした、そのとき、おもむろに慧斗が紅蓮の服の裾をきゅうと握った。声は、ない。
「勾? …お、い、勾……?」
 紅蓮の戸惑いを完全に無視して、慧斗は彼の胸に自ら額を押し付ける。中途半端に中空で行き場を失くしていた彼の腕は、再び慧斗の背中に、添えるように収まった。
「慧、斗」
「今だけ」
 絞り出すような彼女の声に余裕はない。わずかに震える声音をどこかで聞いたことがあると思ったら、何のことはない、先ほど紅蓮が寿命ごと削り取って吐き出した声音そのものだった。心臓が跳ねる。裏切られ傷ついたはずの期待が性懲りもなく涎を垂らす。
「少しだけ、今だけ、……素直になってやる」
 そしておもむろに顔を上げた彼女の頬はただただ赤く、黒曜石の双眸は様々な色に揺らめいていて、
 彼女は怒っているようだった、
 彼女は今にも泣きそうだった、
 彼女はまだ信じられないと呆然としていた、
 彼女は迷子のように戸惑っていた、
 彼女はとても穏やかだった、
 彼女はどこか息苦しそうだった、
 彼女は世界中の至福を手に入れたように、  

 きれいにわらっていた。

「――ゆめみたいだ」



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 お前は私のことなど興味がないと思っていた。慧斗はそう言ってミニテーブルの上に湯気を立てる二つのマグカップを置いた。あれから、コーヒーでも入れるから上がれと部屋の中に引っ張り込まれた。反則級に愛おしい顔を向けられてホワイトアウトした頭は、やっと鈍く動き始めた時またさっと甘く色づいた現実を処理しきれずに錆びついて、だからふわふわした記憶が断片的に漂うばかりだったが、とにかく顔が火照っていたことと彼女の頬にも色が散っていたことだけははっきりしている。何度も訪れたはずの部屋が妙に新鮮で、紅蓮は戸惑った。ミニテーブルの上には英語のプリントと電子辞書、イヤホンの刺さった音楽プレイヤーが散乱していて、課題中だったかと紅蓮は慌てて謝ったが、それらを片づける慧斗はそれは昨日から放っておいていたやつだ、今は遊んでいるだけだったから気にするな、とスクリーンセーバーを映すパソコンを指した。ベッドを背もたれに座って彼女を待つ間、重力が変に軽く感じて半分夢心地だったが、取り敢えず慧斗の淹れてくれたコーヒーの香りと苦み、それからマグカップの熱さはどうしようもなく現実である。
 わざわざ紅蓮の隣に座った慧斗は、片膝を抱えてぽつぽつと言葉を零していく。
「お前は私の気持ちにまったく気づかなかった。私だけがお前を意識して、私だけが友情を取り繕うのに必死になって……そのくせ、お前は私を友人としては大事にしてくれていたから、諦めることもできなかった。諦めようと自分に言い聞かせても、ほんとうの意味で諦めることはできなかった。だってお前は私を女としては見なかったが特別扱いしていたから」
 異議申し立ての権利など持たない紅蓮はただ黙って彼女の台詞を聞くばかりである。なにせ慧斗が以前から好意を寄せてくれていたらしいことをたったいま知ったばかりという体たらくである。慧斗の声色に責める響きはまったくなかったが、なぜもっと早くに自覚できなかったのだろうと小さな後悔は降り積もった。そうしたらこんなことをいま彼女に言わせずに済んだ。
「お前が他の女にも興味がないことは、私の願望込みだと分かってはいたけれど、知っていて……それだけはほっとしていた。それでも未来のことなんて分からないから、いっそのことお前が女自体に興味がなければいいとさえ思った」
「な……」
 流石に絶句する紅蓮を、慧斗はちらりと窺うと、またすぐ視線を逸らして「それくらい」と呟いた。「それくらい、私のものにならないなら他の誰のものにもなってくれるなと、本気で思っていた」
 ふつ、と言葉が途切れた。慧斗はコーヒーに口をつけると、マグカップを立てた膝の上に置いて両手で包み込む。ゆったりと細く息を吐く慧斗に、紅蓮は恐る恐る口を開いた。
「……こんなことを言うと、お前は怒るかもしれないが」
 慧斗が紅蓮を見上げる。浮かべるべき感情の選択に困った挙句の無表情だったが、瞳の深い部分がどこかあどけなく揺らめいていた。
「自覚したのは最近なんだ。つい、この間」
 世界が一変した、ロマンの欠片も転がっていない学生食堂。
「お前が俺の傍にいてくれることは、もう当たり前のことだと思っていて――今まで、お前がいなくなった時のことを考えたことすらなかったんだ。それが、ふっと気づいた。このままだと、遅かれ早かれお前は俺の傍にいてくれなくなること」
 他の男に取られるか自然消滅か、近い将来に用意されていた二択を、見えないはずがなかったはずの二択の存在を紅蓮は初めて知った。
「それで、その時はまだお前を……好き、だ、とか、考えていなかったが、お前と恋人になれたらお前は俺の傍からいなくなったりしないとか、そう思って」
 少しずつ早口になっていく台詞の内容が完全に言い訳だ。慧斗が機嫌を損ねた様子はないことは救いだった。彼女の感情の揺らめきをひとかけらも見逃さないとばかりに慧斗に意識を集中する。
「付き合おう、と言おうと思った、簡単に言えると思った、なのにその瞬間、急にお前がきれいに見えた」
 慧斗が軽く目を見開く。下手な告白より恥ずかしいことを言ったらしいことをすぐに自覚して心臓が跳ねたが、いったん口にした以上なかったことにできないのならと紅蓮は開き直ることに決めた。それは純然たる事実だったから、そうなってしまえば口にすることに躊躇いはわずかもない。
「お前がきれいなことも、好い女だってことも、ずっと前から知っていたのに、そのとき初めて気が付いた。…矛盾だが、ほんとうにそうなんだ。そうしたら、どうしたらいいか一気にわからなくなった」
 こんな感情を長いことくすぶらせることを半強制したのなら、それはとても悪いことをしたと紅蓮は本気で反省している。同時に、もちろん紅蓮が鈍かったのが原因の八割は占めるだろうが、それを悟らせなかった彼女の器用さに舌を巻いた。
「だから、せめて冷静になれる程度に距離を置こうと思った……それで不安にさせたなら、すまなかった」
「――ああ」
 吐息のように慧斗は笑った。笑ってくれたことに安堵する。
「そのせいだったのか。なんだ、ほんとうに最近だな」
「いや、なんというか、その、……すまん」
「ああ、心配だったさ」
 呆れたように力を抜いた慧斗はコーヒーを飲みほしてテーブルに置いた。
「いきなりお前が私を女扱いし出して、私は何かしてしまったのか、ついにお前に好きな相手ができたのか、気が気じゃなかった。いよいよ諦めるべきかなとさえ、思ったぞ」
「それは」
 ぞっとしない。想像しうる最悪のバッドエンドのように思われた。
 紅蓮の言葉を遮って、「お前が遅いのが悪いんだ」と慧斗はくつりとのどを鳴らす。そのことが慧斗の中ですでに笑い話として昇華されているらしいことは紅蓮を大いに安堵させた。
「遅かった、か?」
「こっちがどれだけ待っていたと思っているんだ。……だが、まあ、」
 彼女は三秒ほど考え込む様子を見せ、それからおもむろに紅蓮に身を寄せた。
「……遅すぎたわけではないから、いいよ」
 紅蓮は思わず呼吸を忘れた。体の変な部分に力が入って、代わりに必要な場所が脱力する。緩んだ指のせいで、マグカップがごろりと音を立てて転がった。即座に二人そろって跳ねるように音の方向を見る。幸いにして中身は空だったので被害はない。顔を見合わせて二人同時に息を吐く。と、慧斗は腹を抱えて肩を震わせ始めた。
「お前、こういう時くらいきちんときめられないのか」
 ついには目許を拭い、水分を求めて一度場を立つ始末である。自分の不甲斐なさに頭を抱えたい気分になったが流石に実行に移すことはプライドでどうにかとどめる。どんな陳腐な作品でもこういう時は相手の方に手を伸ばし抱えるのがセオリーである。現実はなかなかに厳しい。
 帰ってきた慧斗はまだ笑っている。その目がひどく優しかった。
「……夢を見たと思ったんだ」
 彼女は当たり前のように、先ほどと同じ場所、紅蓮の隣に落ち着いた。今までなら四角いミニテーブルの斜め向かいに座ったはずだ。今度は体ごと紅蓮の方を向いている。
「急にお前が来て、――抱きしめ、られて。とうとう白昼夢を見たと思った」
「……こっちは必死だったぞ。信じてくれなかったのはかなり堪えた」
「悪かったよ、だが」慧斗は少し言葉を躊躇っていたが、ゆっくりと続けた。「お前が冗談でそんなことを言う性格じゃないことは分かっていた、それでも、もし冗談だったらと思うと怖かった。もしそうだったら崩れてしまいそうだった。あのとき私だって余裕はなかった。お前が私を好きだなんて、私にとってはもう、ありえないことだったんだ。――お前のせいでな」
 最後の一言だけ奇妙にトーンが明るかった。に、と口許を吊り上げ見慣れた挑発的な笑みなどなくとも、それが紅蓮のための気遣いだとすぐに分かる。彼女は紅蓮に待たされ続けた不満を言う権利を持っていて、その内容だって誇張のない事実なのに、こんなときでさえ慧斗は紅蓮を気遣うのだ。そしてばつが悪そうにふいと軽く俯いてしまった慧斗が無性に愛おしい。可愛げのない女とばかり思っていた。仕草の一つ一つがこんなに心をくすぐるなんて聞いていない。
 ふと、言っていないことがあることに気がついた。もしかしたら好きだなんてことより伝えたかった、紅蓮の奥底に根を張った唯一のこと。笑えるくらいきらきらしたたったひとつの。
「なあ、勾」
 呼びかけまではするりと出てくれた。だが、その先が、うるさく跳ねる鼓動に遮られてのどの真ん中あたりに引っかかっている。声帯を震わせるには地球を包み込むよりも大いなる勇気を必要として、紅蓮は何度も唇を開いては閉じることを繰り返した。慧斗は急かすこともなく紅蓮を待っている。絡まった視線の先では透明な黒が柔和な色に瞬いていて、口許がはいた微笑が静かに紅蓮を促していていた。ちゃんと待つから無理するな、と。今更少し待つぐらい大したことじゃない、なんて声さえ聞こえてきそうだ。
「あのな」
 声が硬い。細く息を吐き出す。目は逸らさない。逸らしてはいけない。
「――傍に、いて、ほしい。ずっと。……これからも、ずっと」
 いなくならないように。手の届かない場所になんていかないように。
 お前のいない世界なんて考えられない、
 ……そんな世界なら、いらないから。
 今度は慧斗が詰まった番らしかった。唇が言葉と表情を探しあぐねて細かく動き、結局つぐまれてしまう。意地のように目だけは紅蓮を見据えて動かない。十秒ほどたっただろうか。ふっと肩から力が抜けて、何がおかしいのかくつくつと笑い出す。置いてけぼりを食らった紅蓮に、慧斗はさらに笑うばかりだ。
「お前、自覚は……なさそうだな。紅蓮、それは、その台詞はまるで」
 指摘を受け、分からないままに放った言葉を手繰り寄せしげしげと眺めてみて――気づいた。
 取り敢えずどんなに適当に評してもプロポーズには流用できそうだ。
 とたんに体も思考も固まった。心臓すら止まるかと思ったほどだ。撤回するわけにも否定するわけにもいかず――それだけは何があってもできない――微動だにしない紅蓮を慧斗はますますおもしろがった。そして安堵したように言う。
「よかった、いきなり色々言ってくるようになってどうしようかと思ったが、やはりお前はお前だな」
 そして挑むように紅蓮を見据え、
「ああ。――お前が、望む限り」
 ああ、と紅蓮は吐息を零した。いつもそうだ。いつも彼女は余すことなく紅蓮が欲しい言葉をくれる。敵わないなと微笑むしかない。
 おもむろに彼は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。はたと触れてみたくなったのだ。じわりと熱い。ほのかに染まる白い肌。紅蓮の褐色とのコントラストが悪くなくて、紅蓮は無性に嬉しくなった。ふいに、さっと潮が引くように空気が変わる。静かな空間の、密度が突然甘くなる。神がいたずらに色彩を作り変えてしまったかのようだったが、原因は紅蓮自身である。それを知って彼は内心ひどく焦った。だが、この手を離すのは、何か、違う。紅蓮の隅々までを見透かすような彼女の目が、優しく、やや戸惑い、おかしげに、幸福を潜ませてきらめくと、ゆるり、慧斗は瞼を伏せた。長い睫毛の落とした影が目を引いた。紅蓮は恐る恐る、もう片方の手を伸ばして丁寧に彼女を掬い上げ、
 そして、
 重ねた。

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