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最近勉強をしてると考察がしたくてたまらなくなる。
から、ちょっと考えてみた。



神将の感情について。

十二神将は神の末席に連なるもの。神は人間ほど感情は多岐で豊かではなく、稀薄。同じように十二神将の感情もまた人間より単純で一元的。
でも果たして本当にそうなのかと。
強烈な個性(キャラクター性)と信念、価値観、願う心、他者への共感、その他etc。子供みたいに真っ直ぐで妥協を許さなくて純粋で、だから強い。
「感情」は人間より強くない。でも「心」、それを向けるエネルギーは、時と場合によっては妥協したりそれを押し殺したりしなけりゃいけないかもしれない人間よりは強いと思う。

だからここで仮定。
神将は感情が単純なのではなく、感情のキャパシティが足りてないのではないか。

ここでのキャパシティの言語定義は、取り敢えず「容量」と「能力」で。「己の感情を理解し自分のものとして処理する能力」とも言えるかも。
容量がなければ理解できない。能力がなければ処理できない。

十二神将は、人の想いの具現化。つまり、人の生み出した神。人の願った神。人の思った「自分たちのための神」。
だから、神であっても純粋な神とは一線を画している。けれど人間とは確実に違う。人であって、神である。
人よりは神に近く、神よりは人に近く。
この仮定が正しいと考えると、少なくとも高淤の神のような天津神よりは感情豊かであると思われる。

だからここで「キャパシティの不足」という仮定が想像できる。
キャパシティを超える感情は発生し得るが、それを自分のものとして認識する能力が足りないので、そのような感情が発生していることすら分からない。強すぎる感情による心の麻痺。本人には実感がない。だから、キャパシティ…能力的にまだ「単純な感情しか理解できない」状態の神将たちにとっては、複雑な感情は「持ちえないもの」「知りえないもの」。認識できなければそれはないのと同じだから。

十二神将は、基本的に同胞と、おそらくは明確な自我や意識は持たない精霊しかいない異界に存在していた。たまには人界に降りたかもしれないけど、その頻度は高くないはず。人間との接触はあったが、それは一時的、かつ瑣末なものだった。神との接触はたぶん、人間との接触以上にない(神がわざわざ十二神将如きを気にして呼びだすとかどう考えてもあり得ない)。
だから、本来「自分」と「他者」で構成されるはずの世界は、けれど神将にとっては「自分」と「同胞」で構成されるものだった。この場合「他者」≠「同胞」。「同胞」は「自分」に関わるものではあっても、強く干渉するものでもなければ害をなすものでもない。基本的には、信頼すべき存在。けれどそこに在るだけの存在。
過度の干渉はなく、ただ個々人が好き勝手に永い永い時を数える。こうして「存在しているだけ」の状態で、感情の受容能力が培われるはずがない。
人間なら成長に伴ってなされる人との関わりの中で様々な思いや感情を学ぶ。生まれた時不完全だから、自然と磨かれて行く。
でも、神将は、誕生した時から全て(思考能力など)が完成した形を見せていた(と思われる)。けれど、一見完成されたように見えるそれは、まだ磨かれて成長・変化する余地もあった。

晴明と関わる中で神将が変わっていったのは、この「一見完全に見える、不完全な自我」が、人間という「他者」や、今まで自分にとってあまり関わりの強いものでなかった「同胞」との関係性の中で磨かれて変化したから。この場合の「自我」の言語定義は「思考や感情などを含むすべての一個体としての精神的能力」。

ここで話を戻す。彼らの感情は、もともと人間ほどではないが、神よりは複雑なものとして存在していた。でも、同胞との関わりだけではそれが磨かれ成長・変化するには不完全で薄かった。
特典小説に書かれてた、『十二神将に嘘と言う概念はない』(意訳で抜粋)ってのがそれを裏付ける。「同胞」が、彼・彼女にとって「同胞」である「自分」を欺くはずがない。その必要性がない。道理がない。だから神将に嘘と言う概念は必要がなかった。その概念の必要性を理性的に・言語的に理解しても、肌での理解ではないから、嫌悪する。それは結局のところ「自分」に直接的な関係がないから。

だから初めて人間、つまりは晴明と関わり、必然的に「人間」という生き物とも関わるようになった時、彼らの複雑化した感情に驚く。初めは彼らの感情が理解できない時が往々にしてあり、そして「自分たちの感情は人間のものほど複雑でない」と思い込む。ある意味刷り込みのようなその認識は、その後上書きされる機会もなく、認識だけが置き去りを食らって事実と乖離した。

ゴムとかで出来た、伸縮性の高い袋のようなもの。使いこまれていくうちに広がり、多くのものを受容できるようになる。放っておかれたら何も変わらない。
そして、少しずつ受け入れるものの量が増えても、その変化があまりに僅かすぎるので、自覚できない。ある時、ふと昔を振り返って、その変化に気づく時はあるかもしれない。けれどその時が訪れるにはまだ時間が足りない。
だから感情は複雑化――「受容できる感情の複雑化」は少しずつ起こっているけど、彼らはそれを実感できない。
結果的に、第三者(この場合、私という読者)から見ると「人間と比べても遜色ないくらいの感情を持っている」と思われるのに、本人的には「人間ほど複雑な感情は持っていない、人間の感情の複雑さは理解できない」となる。

紅蓮が一番いい例かもしれない。マイナスの方向に特化してても、他の神将よりずっと、強すぎる感情を覚える機会が多かった。そして強すぎるマイナスの感情を知っているからこそ、昌浩と言う救いを見出した時から覚え始めたプラスの感情も理解しやすくなっている。
結果的に、物凄く人間臭い、というか、特に現代パラレルでは既に人間だろお前、というまでの人間に酷似した感情を持つに至っている。

もちろんキャパシティそのものが人間とは別次元のため、どうしても理解できない感情も存在しうる。例えば、「己には何の関係もない、生涯何の関係もない第三者を本気で案じる心」など。
現代パラレルの「安倍の家が続いていたら後は何が起ころうと関係ない」の紅蓮の台詞は、ここに起因している。
嫌悪感などを覚えることはある(まだら~の勾陣の反応から推測すると)。でもそれは、少なくともあの一例は本能的なものでもあり得る(誰かの身に起こった事象を無意識のうちにその「誰か」=「自分」と考えてしまう/女の方がこの能力(相手の感情(特に悲しみなど)などに共感する能力)は高い)。
けれど、自分のうちで帰結する感情、自分の知るとある誰かに覚える感情は、おそらく人間と同じくらい複雑なものでも理解できる。それだけの能力はある。「自分の知るとある誰か」の範囲の大小も人間とは随分違うだろうけれど。

「己にとって強く関係のある相手」を、思いやることが出来る。その相手が沈みこんでいた時、解決策を模索してやることが出来る。何が出来るかと心を砕くことが出来る。案じることができる。相手に共感することが出来る。(分かりやすい例は紅蓮か? 天狐編や玉依編での、昌浩のために何かできることはないか模索する彼の姿はこれを見受けるには充分)
もちろん自分にとって幾分か近しかった者の死を悼むこともできるし(例えば「花の香の常盤」の天后)、誰かへの強い恋情を自覚することもできるし(朱雀や天一、六合)、逆に誰かを嫌うこともできる(紅蓮、青龍、天后)。
今現在神将はこれが出来ているわけで、だから少なくとも「自分のうちに生じて帰結する感情」「自分にとって近しい者に対する感情」は、人間レベルまで成長の余地ありか。








……それにしても考察する時の私の文章、現代文みたいだな…。
前提から間違ってるかもしれないけど、取り敢えず今現在自分が一番納得できた仮説とその裏付け。
絶対神将たちの感情は人間と同じくらい複雑化してるって。

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碧波 琉(あおば りゅう)
少年陰陽師・紅勾を中心に絶えず何かしら萌えor燃えている学生。
楽観主義者。突っ込み役。言葉選ばなさに定評がある。
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