Be praying. Be praying. Be praying.
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「より高い能力の後継ぎ」を必要とする安倍家にとって一夫一妻の慣習って物凄い非効率じゃなかろうか。
というかそんな背景があるなら安倍家こそ一夫多妻であるべきな気がする。
とある恋の犠牲になろうとしている、自分の恋のために他人を犠牲にした者の話。昌彰。
「夕べの花と散り急げ」ネタバレを含みます。
というかそんな背景があるなら安倍家こそ一夫多妻であるべきな気がする。
とある恋の犠牲になろうとしている、自分の恋のために他人を犠牲にした者の話。昌彰。
「夕べの花と散り急げ」ネタバレを含みます。
眠れない。
必死で閉じている目は気を抜くとすぐ開いてしまう。何度寝返りを打っても寝難さは改善されず、どくどくと煩く波打つ心臓から全身へ広がる痺れのようなものが成長痛と混じり合って痛みなのか何なのか判別のつかないものになっていた。時折、ぐる、と地面が回転して、枕で高くなっているはずの頭に血が上る感覚が気持ち悪い。
どういうことだろう。
眠れない夜は、ひどく長い。夜警で走り回ってくたくたの夜は朝焼けまで一瞬にも思えるのに。もう二刻も三刻も経ってしまったように感じたが、本当はきっと一刻も経っていないのだろう。ぼおっと目を開けると、若干ながらも部屋の内装が認識できた。
頭の中でたくさんの声がしている。物の怪の声と、晴明の声と、出会ったばかりの少女の声と。螢、と言った。昌浩にとって掛け替えのない約束を想起させる名を持っていた、昌浩の夢に出てきた少女。昌浩より力の強い陰陽師。
私は昌浩と一緒になることになっている。
そうだ、確か、に、彼女はそう言った。あの時螢の声音はどんなだったのか。
約定が果たされる時が来たのだと言った。交わした本人が死んでしまった約束に今更効力があるものかと突っぱねてやりたいが、陰陽師の言霊は絶対だ。力を持たぬ者の間でさえ約束は効力と効果を持っている――たとえば昌浩が彰子と交わした約束が昌浩の心を護り続けているのと同じように――ならば、言霊を操り力を込めることを生業とする陰陽師の約定の強さがいかほどか。そんなこと、いくら昌浩でも分かる。分かってしまう。単純な、とても単純な理論だ。理解したくないほどそっけなくて簡潔な。
晴明が母より受け継がれ、そして昌浩自身にも強く流れる天狐の血が欲しいのだと言う。――血が、欲しいのだと! そんなもののために、昌浩が欲しいのだと!
(……なんだよ、あの子)
急に来て、そんな、勝手な。決定事項のように――いいや事実彼女のなかでは決定事項なのだろう、当然のことを当然のように答える口ぶりによどみはなかった。
(もっくんももっくんだ。結婚しろって、俺に、ありえない)
食ってかかってくれると思っていた。あの相棒はいつだって昌浩の味方だから、昌浩が望まない婚姻など、あの物の怪が第一に反対してくれると思っていた。
裏切られた気分だ。とても身勝手で我が儘な子どもの気分だと分かってはいるけれど。
(じい様も、何も言わないし)
とにかく寝ろだなんて、体よく昌浩を追い返すための方便に決まっている。昌浩当人のことを昌浩の知らないところで決められているかもしれないことが無性に腹立たしかった。
(第一、そうだよ。曾じい様が悪いんだ。なんだよ、なんで)
ひとを――俺を――俺たちを――犠牲にするような恋なんて彼らがしなければよかったのに! そうなれば自分どころか晴明さえ生まれてはいなかったのだろうが、今そんなことは関係なかった。
(そうだ、曾じい様が)
自分たちの恋のために昌浩を――結果的にでも――切り捨てた。
――ふと。
(あれ?)
昌浩の心に何かが引っかかった、気がした。しかし引っかかったと思ったものは、振り返って拾おうとしてもどこにも見当たらない。そして些細な違和感は理不尽に虐げられた怒りと不満に踏みつぶされて夜闇へ溶けた。
混乱を極めて螺旋の中に閉じ込められた思考はぐるぐるとひたすらに迷路をたどる。ぐるぐると。ぐるぐると。たどり続けて一回転。ふりだしに戻る。螢のこと。約定のこと。血を入れなければならない。一緒にならなければならない。――結婚。
どうしてだろう。
どうして。なんで。なんで。
結婚そのものは不可能ではない。一夫一妻は安倍家の慣習となっているものの、その慣習そのものが世間では珍しいものなのだ。現代の主流は一夫多妻制であり、昌浩が何もかもを受け入れれば話は丸くおさまるだろう。
本当に?
綺麗な黒髪が脳裏をよぎった。たっぷりとした艶やかな黒。白い肌は健康的で、優しく大きな黒目はたくさんの感情でくるくると瞬く。生まれて初めて心から守りたいと思った子だ。ただ彼女の幸せを願い、無事を願い、息災を願い、笑顔を願い、しかし彰子の存在に護られているのは昌浩だ。護ると言いながら、心を支え、時に命すら護られた。出会って一年と少しで、もう昌浩から切り離せない一部になった女の子。
いとおしいと、思う、相手。
それは、確かに愛情だ。恋と呼ばれるもの、なの、かも、しれない。しかし今の時点でそう言い切ってしまうのは嘘くさい気がした。傍にいたいだけだ。あの子の誰より傍にいたいだけだ。必要とされていたいだけ。一緒に笑っていたいだけ。あの子のいる毎日が続けばいいと思っているだけ。
そこまで思って愕然とした。いつの間に俺はこんなに我が儘になっていたのだろう。
そう思っているだけ。それだけ。謙虚を装った言い訳の中身は、いつかの日に諦めたものではなかったのか。
東三条殿から大内裏へ。
綺麗な空の日だった。
見事な行列。見物する人々。遠くから見ていた。
華やかな牛車。出車。
ただ遠くから。
あのとき俺は泣いていたんだった。
もう会えない。
だけど、だから、祈っている。
幸せに。
どうかどうか幸せに。
せめて君はしあわせに。
さよなら、きみが、だいすきだった。
それ以外の名前を伴わない『だいすき』は今日の日まで連綿と、深く考えられることもなく続いていた。この『だいすき』が何なのか、昌浩は考えようとしなかった。こんなことになって今もなお、考えようとすらしていない。『だいすき』なのだ。それだけ、なのだ。
たとえば、約定を受け入れ螢と三日夜の餅を行ったとして――行ったとして――行ったと、して――…………想像が、できなかった。螢と結ばれた日々は昌浩にとって彰子のいない日々に等しいように思われた。彰子のいない日々など有り得ない、だって彰子は陰陽師としての昌浩の傍にいなければならないから。安倍の家にいなければならないから。
彰子は、昌浩が螢と結婚したとして、傷つかないでいてくれる、だろうか。いてくれるのなら、昌浩はもしかしたら、螢を受け入れるかもしれない。傷つかないでいて欲しいと思う。それと同時に、傷ついてくれるだろうと、傲慢に、思ってもいた。傲慢な想像はいつしか前提としての事実に等しくなる。
すなわち、彰子を切り捨ててまで螢を娶ることはできないだろうと。
(……だって、もう、嫌だ。もう)
昌浩の日々に、彰子がいる。この日常を、この幸福を、昌浩は既に手にしてしまった。幸せな日々を知ってしまった。昌浩にとっての、幸せの前提条件を、知ってしまった。一度手にした幸福を自らの手で手放すことなど、できない。手放すことで彰子が幸せになるならまだしも。
(嫌だよ)
いつか、誰かに言った。
彼女は、
俺にとって彼女は、
とても優しくてあたたかくて強くて、脆い、
愛おしい人。
……彼女でなければ、だめなんです…!
(あ)
唐突に。
螺旋のほころびへ吸い込まれる。出口へは続かぬ袋小路と分かっていた。
(――中宮)
思い出した面差しがある。彰子によく似ていた少女。彰子よりも儚げで、控えめだった。
雨の降りそうな夜だった。
(……そっか、さっきの)
先程引っかかったもの。ふいに寒気がして衣にくるまりながらぎゅうと強く目を閉じる。気づきたくないと心が叫んだ。しかし意識は記憶の水底に沈んでいく。殻に閉じこもるように両手で耳を塞いだ。こおお…と血潮の音が心地よく響いた。
(俺は、あのとき、中宮を)
中宮が――いや、章子が、あの時何を言いたがっていたのか、きっと昌浩は分かっていた。理解していて『聞かない』という選択肢を選びとり、またそれを章子に強要した。
言わないで。
だって俺は君じゃだめなんだ。
――彼女でなければ、だめなんだ……。
彰子と章子、ふたりぶんの運命は、あのとき確かに昌浩の手の中にあった。ふたりぶんの人生は昌浩の決断ひとつに委ねられていた。どちらの苦しみも取ることができた。
どちらを傍に置くのか、昌浩には選ぶことができた。その権利があり義務があった。
そして選んだ。
彰子を傍に。
護ってくださいますかと章子は言った。分かっていた。章子の望みを、昌浩は、分かっていた。分かっていて、たってひとつの天珠を、章子のために――違う――違う――あれは、ただ――自分のために――章子へ使った。
苦痛を取り除く代わりに、章子の望みを、切り捨てたのだ。
名を呼んで欲しいと言った。その望みさえ叶えずに。昌浩が彰子に叶えて欲しい望みすら叶えずに。昌浩には許された望みだったのに。
どうしてと章子は言った。
心臓に蘇ったその声で死んでしまいそうだ。
だって、
おれのしあわせにはあきこがひつようなんだ。
だから、ごめん、きみをえらぶことはできない。
きみをおもんばかることはできない。
ごめんね、きみは、いらないんだ。
(――なんだよ)
目を開くと、ただでさえ暗がりでよく見えない視界がさらにぼやけていた。
(なんだよ、なんだよ、なんだよ!)
ぎゅっと手を強く握りしめる。掌に爪が食いこんで痛い。力を緩めようとしたのに、自分の体は言うことを聞いてくれなかった。
(なんで分かっちゃうんだ!)
曾祖父も、きっと、同じだったのだ。切り捨てたのが子孫か他人かなんて関係はない。『自分』の幸せのためだけに『自分以外の誰か』を切り捨てた点において、昌浩と曾祖父とでは何が違うと言うのだ。
章子は、今、幸せなのかもしれない。しかしその仮定は、昌浩が螢と結婚して幸せになるかもしれない、という想像と同じたぐいのものだ。あのとき章子が唯一望んだ幸福を昌浩が叶えなかった事実が変わるわけではない。
誰も傷つけない陰陽師になると、紅蓮と約束をした。
けれど、誰も切り捨てずに生きることなど、もはやできない。
昌浩は彰子のために――正しくは彰子と共にと望む自分のために――これから何度でも『自分以外の誰か』を犠牲にするだろう。たとえば彰子と螢をかけた天秤は、たった一瞬で螢を掲げる。螢はまったく何も悪くないのだと、昌浩の中のもっとも冷静で理知的な部分は分かっていた。螢こそ、先祖の交わした約定で昌浩と結婚しなければならなくっていい迷惑だろう。もしかしたら螢も昌浩と同じようなことを思ったかもしれない。けれど、いよいよどうしようもなくなったとき、きっと昌浩は「俺の知らない約束なんて知ったことか」と言い放って螢を切り捨てるだろう。……確実に、切り捨てる。少なくとも彰子を切り捨てることなどありはしない。昌浩はいつでも彰子以外の誰かを切り捨てる。
(なんで)
もう昌浩は曾祖父を無邪気に恨むことなどできない。
(なんでだよ…)
つうとまなじりを伝った何かがあった。
(みんな、みんな、ただ、幸せになりたいだけなのに)
一緒にいたいという、傲慢でありきたりな幸せを、守っていたいだけなのに。
(なんでなんだよ、ちくしょう……)
今はもうそんな簡単なことさえ、ぽっかりと浮かぶ月のように遠い。
恨む先すら見失ったこの感情を、どこへ向ければいいと言うのだろう。
それともこれは報いだろうか。
自覚もなく誰かを切り捨てていた自分への。
不確かな日常を当たり前だと享受していた自分への。
だったらせめてあのこだけでもしあわせになれればいいのにこのままじゃあのこもしあわせになれない。
(神様)
高淤の神のような神様じゃなくて、人間の運命を決める絶対的な存在としての神様。
(――恨みます)
夜はまだ、明けない。
必死で閉じている目は気を抜くとすぐ開いてしまう。何度寝返りを打っても寝難さは改善されず、どくどくと煩く波打つ心臓から全身へ広がる痺れのようなものが成長痛と混じり合って痛みなのか何なのか判別のつかないものになっていた。時折、ぐる、と地面が回転して、枕で高くなっているはずの頭に血が上る感覚が気持ち悪い。
どういうことだろう。
眠れない夜は、ひどく長い。夜警で走り回ってくたくたの夜は朝焼けまで一瞬にも思えるのに。もう二刻も三刻も経ってしまったように感じたが、本当はきっと一刻も経っていないのだろう。ぼおっと目を開けると、若干ながらも部屋の内装が認識できた。
頭の中でたくさんの声がしている。物の怪の声と、晴明の声と、出会ったばかりの少女の声と。螢、と言った。昌浩にとって掛け替えのない約束を想起させる名を持っていた、昌浩の夢に出てきた少女。昌浩より力の強い陰陽師。
私は昌浩と一緒になることになっている。
そうだ、確か、に、彼女はそう言った。あの時螢の声音はどんなだったのか。
約定が果たされる時が来たのだと言った。交わした本人が死んでしまった約束に今更効力があるものかと突っぱねてやりたいが、陰陽師の言霊は絶対だ。力を持たぬ者の間でさえ約束は効力と効果を持っている――たとえば昌浩が彰子と交わした約束が昌浩の心を護り続けているのと同じように――ならば、言霊を操り力を込めることを生業とする陰陽師の約定の強さがいかほどか。そんなこと、いくら昌浩でも分かる。分かってしまう。単純な、とても単純な理論だ。理解したくないほどそっけなくて簡潔な。
晴明が母より受け継がれ、そして昌浩自身にも強く流れる天狐の血が欲しいのだと言う。――血が、欲しいのだと! そんなもののために、昌浩が欲しいのだと!
(……なんだよ、あの子)
急に来て、そんな、勝手な。決定事項のように――いいや事実彼女のなかでは決定事項なのだろう、当然のことを当然のように答える口ぶりによどみはなかった。
(もっくんももっくんだ。結婚しろって、俺に、ありえない)
食ってかかってくれると思っていた。あの相棒はいつだって昌浩の味方だから、昌浩が望まない婚姻など、あの物の怪が第一に反対してくれると思っていた。
裏切られた気分だ。とても身勝手で我が儘な子どもの気分だと分かってはいるけれど。
(じい様も、何も言わないし)
とにかく寝ろだなんて、体よく昌浩を追い返すための方便に決まっている。昌浩当人のことを昌浩の知らないところで決められているかもしれないことが無性に腹立たしかった。
(第一、そうだよ。曾じい様が悪いんだ。なんだよ、なんで)
ひとを――俺を――俺たちを――犠牲にするような恋なんて彼らがしなければよかったのに! そうなれば自分どころか晴明さえ生まれてはいなかったのだろうが、今そんなことは関係なかった。
(そうだ、曾じい様が)
自分たちの恋のために昌浩を――結果的にでも――切り捨てた。
――ふと。
(あれ?)
昌浩の心に何かが引っかかった、気がした。しかし引っかかったと思ったものは、振り返って拾おうとしてもどこにも見当たらない。そして些細な違和感は理不尽に虐げられた怒りと不満に踏みつぶされて夜闇へ溶けた。
混乱を極めて螺旋の中に閉じ込められた思考はぐるぐるとひたすらに迷路をたどる。ぐるぐると。ぐるぐると。たどり続けて一回転。ふりだしに戻る。螢のこと。約定のこと。血を入れなければならない。一緒にならなければならない。――結婚。
どうしてだろう。
どうして。なんで。なんで。
結婚そのものは不可能ではない。一夫一妻は安倍家の慣習となっているものの、その慣習そのものが世間では珍しいものなのだ。現代の主流は一夫多妻制であり、昌浩が何もかもを受け入れれば話は丸くおさまるだろう。
本当に?
綺麗な黒髪が脳裏をよぎった。たっぷりとした艶やかな黒。白い肌は健康的で、優しく大きな黒目はたくさんの感情でくるくると瞬く。生まれて初めて心から守りたいと思った子だ。ただ彼女の幸せを願い、無事を願い、息災を願い、笑顔を願い、しかし彰子の存在に護られているのは昌浩だ。護ると言いながら、心を支え、時に命すら護られた。出会って一年と少しで、もう昌浩から切り離せない一部になった女の子。
いとおしいと、思う、相手。
それは、確かに愛情だ。恋と呼ばれるもの、なの、かも、しれない。しかし今の時点でそう言い切ってしまうのは嘘くさい気がした。傍にいたいだけだ。あの子の誰より傍にいたいだけだ。必要とされていたいだけ。一緒に笑っていたいだけ。あの子のいる毎日が続けばいいと思っているだけ。
そこまで思って愕然とした。いつの間に俺はこんなに我が儘になっていたのだろう。
そう思っているだけ。それだけ。謙虚を装った言い訳の中身は、いつかの日に諦めたものではなかったのか。
東三条殿から大内裏へ。
綺麗な空の日だった。
見事な行列。見物する人々。遠くから見ていた。
華やかな牛車。出車。
ただ遠くから。
あのとき俺は泣いていたんだった。
もう会えない。
だけど、だから、祈っている。
幸せに。
どうかどうか幸せに。
せめて君はしあわせに。
さよなら、きみが、だいすきだった。
それ以外の名前を伴わない『だいすき』は今日の日まで連綿と、深く考えられることもなく続いていた。この『だいすき』が何なのか、昌浩は考えようとしなかった。こんなことになって今もなお、考えようとすらしていない。『だいすき』なのだ。それだけ、なのだ。
たとえば、約定を受け入れ螢と三日夜の餅を行ったとして――行ったとして――行ったと、して――…………想像が、できなかった。螢と結ばれた日々は昌浩にとって彰子のいない日々に等しいように思われた。彰子のいない日々など有り得ない、だって彰子は陰陽師としての昌浩の傍にいなければならないから。安倍の家にいなければならないから。
彰子は、昌浩が螢と結婚したとして、傷つかないでいてくれる、だろうか。いてくれるのなら、昌浩はもしかしたら、螢を受け入れるかもしれない。傷つかないでいて欲しいと思う。それと同時に、傷ついてくれるだろうと、傲慢に、思ってもいた。傲慢な想像はいつしか前提としての事実に等しくなる。
すなわち、彰子を切り捨ててまで螢を娶ることはできないだろうと。
(……だって、もう、嫌だ。もう)
昌浩の日々に、彰子がいる。この日常を、この幸福を、昌浩は既に手にしてしまった。幸せな日々を知ってしまった。昌浩にとっての、幸せの前提条件を、知ってしまった。一度手にした幸福を自らの手で手放すことなど、できない。手放すことで彰子が幸せになるならまだしも。
(嫌だよ)
いつか、誰かに言った。
彼女は、
俺にとって彼女は、
とても優しくてあたたかくて強くて、脆い、
愛おしい人。
……彼女でなければ、だめなんです…!
(あ)
唐突に。
螺旋のほころびへ吸い込まれる。出口へは続かぬ袋小路と分かっていた。
(――中宮)
思い出した面差しがある。彰子によく似ていた少女。彰子よりも儚げで、控えめだった。
雨の降りそうな夜だった。
(……そっか、さっきの)
先程引っかかったもの。ふいに寒気がして衣にくるまりながらぎゅうと強く目を閉じる。気づきたくないと心が叫んだ。しかし意識は記憶の水底に沈んでいく。殻に閉じこもるように両手で耳を塞いだ。こおお…と血潮の音が心地よく響いた。
(俺は、あのとき、中宮を)
中宮が――いや、章子が、あの時何を言いたがっていたのか、きっと昌浩は分かっていた。理解していて『聞かない』という選択肢を選びとり、またそれを章子に強要した。
言わないで。
だって俺は君じゃだめなんだ。
――彼女でなければ、だめなんだ……。
彰子と章子、ふたりぶんの運命は、あのとき確かに昌浩の手の中にあった。ふたりぶんの人生は昌浩の決断ひとつに委ねられていた。どちらの苦しみも取ることができた。
どちらを傍に置くのか、昌浩には選ぶことができた。その権利があり義務があった。
そして選んだ。
彰子を傍に。
護ってくださいますかと章子は言った。分かっていた。章子の望みを、昌浩は、分かっていた。分かっていて、たってひとつの天珠を、章子のために――違う――違う――あれは、ただ――自分のために――章子へ使った。
苦痛を取り除く代わりに、章子の望みを、切り捨てたのだ。
名を呼んで欲しいと言った。その望みさえ叶えずに。昌浩が彰子に叶えて欲しい望みすら叶えずに。昌浩には許された望みだったのに。
どうしてと章子は言った。
心臓に蘇ったその声で死んでしまいそうだ。
だって、
おれのしあわせにはあきこがひつようなんだ。
だから、ごめん、きみをえらぶことはできない。
きみをおもんばかることはできない。
ごめんね、きみは、いらないんだ。
(――なんだよ)
目を開くと、ただでさえ暗がりでよく見えない視界がさらにぼやけていた。
(なんだよ、なんだよ、なんだよ!)
ぎゅっと手を強く握りしめる。掌に爪が食いこんで痛い。力を緩めようとしたのに、自分の体は言うことを聞いてくれなかった。
(なんで分かっちゃうんだ!)
曾祖父も、きっと、同じだったのだ。切り捨てたのが子孫か他人かなんて関係はない。『自分』の幸せのためだけに『自分以外の誰か』を切り捨てた点において、昌浩と曾祖父とでは何が違うと言うのだ。
章子は、今、幸せなのかもしれない。しかしその仮定は、昌浩が螢と結婚して幸せになるかもしれない、という想像と同じたぐいのものだ。あのとき章子が唯一望んだ幸福を昌浩が叶えなかった事実が変わるわけではない。
誰も傷つけない陰陽師になると、紅蓮と約束をした。
けれど、誰も切り捨てずに生きることなど、もはやできない。
昌浩は彰子のために――正しくは彰子と共にと望む自分のために――これから何度でも『自分以外の誰か』を犠牲にするだろう。たとえば彰子と螢をかけた天秤は、たった一瞬で螢を掲げる。螢はまったく何も悪くないのだと、昌浩の中のもっとも冷静で理知的な部分は分かっていた。螢こそ、先祖の交わした約定で昌浩と結婚しなければならなくっていい迷惑だろう。もしかしたら螢も昌浩と同じようなことを思ったかもしれない。けれど、いよいよどうしようもなくなったとき、きっと昌浩は「俺の知らない約束なんて知ったことか」と言い放って螢を切り捨てるだろう。……確実に、切り捨てる。少なくとも彰子を切り捨てることなどありはしない。昌浩はいつでも彰子以外の誰かを切り捨てる。
(なんで)
もう昌浩は曾祖父を無邪気に恨むことなどできない。
(なんでだよ…)
つうとまなじりを伝った何かがあった。
(みんな、みんな、ただ、幸せになりたいだけなのに)
一緒にいたいという、傲慢でありきたりな幸せを、守っていたいだけなのに。
(なんでなんだよ、ちくしょう……)
今はもうそんな簡単なことさえ、ぽっかりと浮かぶ月のように遠い。
恨む先すら見失ったこの感情を、どこへ向ければいいと言うのだろう。
それともこれは報いだろうか。
自覚もなく誰かを切り捨てていた自分への。
不確かな日常を当たり前だと享受していた自分への。
だったらせめてあのこだけでもしあわせになれればいいのにこのままじゃあのこもしあわせになれない。
(神様)
高淤の神のような神様じゃなくて、人間の運命を決める絶対的な存在としての神様。
(――恨みます)
夜はまだ、明けない。
PR
この記事にコメントする